Comments by Dr Marks

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スーコート(仮庵の祭)が日没から:そんな日にマルコの話をTwitter風(超簡単ブログ)にやってみよう

Mark: A Commentary on His Apology for the Cross

Mark: A Commentary on His Apology for the Cross

西海岸22日(水)の夜だ。スーコート(仮庵の祭は申命記16章参照)になると秋の始まりだ。明日はユダヤ人たちが四種の葉や枝を束ねて(アルバアト・ハミニム、レビ記23:24参照)我が町を歩くだろう。写真を撮れたら撮るが約束はできない。そして彼らは庭に仮小屋を7日の間建てるが、文字通りそこで寝泊りするのは少ない。いや、ガキが遊びで・・・。

そんな日にマルコ伝の著者マルコの話をしようとしたのだが、忙しいので Twitter 程度だな。マルコ伝の著者マルコというと、素人さんは「ええ、マルコ伝と付いててもマルコが書いたというのは単なる伝承でしょう」と言うかもしれない。ところがね、ちびまる子ちゃんでないことは確かだが、使徒行伝で別名ヨハネとも言われるヨハネ・マルコが著者であるという状況証拠は、専門家の間ではかなり受け入れられているのだよ。

議論はかなり複雑なので簡単にすると、まず彼の名とマルコ伝が出てくる文献で一番古いのはエウセビウスの『教会史』(3.39.15)なのだが、この本自体は4世紀のものであるからマルコやマルコ伝からだいぶ時代が下がっている。しかし、ここではパピアスという初代教父の言葉が引用されていて、その一次資料は(人により計算が違うのではあるが)110年より遅くはないとみて間違いはなかろう。エウセビウスの正確さがどれほどであるか(それはそれで問題ではあるが)は別として、パピアスの記述が信頼できるとすれば、かなりエウセビウスのテキストの信憑性は高まる。

次に、110年頃までにパピアスが耳にした長老の言葉だが、この長老が誰か問題となる。使徒の一人であるのか、あるいは第二世代の弟子か。(パピアス自身はほぼ第三世代であろう。)これも議論は複雑なのだが、使徒ヨハネがこの長老であると推定できる。エウセビウスは通常は使徒ヨハネと他の長老ヨハネを区別しているが、ここはパピアスの引用であり、その原則が当てはまらない可能性が高い。また、使徒ヨハネであれば、すでに第三世代に入ったパピアスと直接の接点があってもおかしくないのだ。

さて、それでもマルコという名前は当時どこにでもある名前ではないか(今でもマルコは多いよ、余の名前もなぜかマルコ)、それがヨハネ・マルコ(使徒行伝12:12、15:37)である証拠はいったい何かとなるが、ないこともない。パピアスはペテロの第一の手紙を読んでいるのだから、その末尾に(5:13)ある名前がマルコ伝の著者でなかったら、「それとは別の・・」とかなんとか言いそうなものだからだ。

結論だが、なんか賢そうに断言するのをはばかる学者が多いのだが、そいつは賢そうにしたいのか、あるいは以上の議論をまったく知らないのか、はたまたその双方であろう。余は、マルコ伝はエルサレムで有力な女性マリア(イエスの母やマグダラのマリアとは別人、使徒行伝12:12参照)の子ヨハネ・マルコであると断言できる。しかし、マルコ伝の成立時期やマルコの生涯など、裏付けの仕事が終わっているわけではない。いわゆる史的マルコを追究する困難な仕事は、まだまだ続くだろう。

ああ、忘れてた。そんな議論はどこで見ることができるのかという真面目なあなたのために文献を一つ。余の師であり大恩人の一人の著作だが、Robert H. Gundry, Mark: A Commentary on His Apology for the Cross (Eerdmans, 1993)というのがあり、とくに1026−1046ページ参照。うーむ、日本で買うと1万円はするのか。しかし、こんな大部の本だから当然だろう。上下2巻本もあるようだ。値段はわからん。