Comments by Dr Marks

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猫猫ブログの「私の本の読み方」で誤解してはならないこと(http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20100924)

小谷野敦先生が自分の本の読み方をばらしていた。もっとも娯楽のためにだけ読むのではなく調査・研究のための、つまり調べ物のための読書も含まれる。

その際、斜め読みというような表現があるが、先生のは飛ばし読みだ。更にスピードアップした読み方である。すると、人は、なーんだ、ちゃんと読んでいないの、という。うん、ちゃんと読んでいない。しかし、誤解してはならない。まあ、本人でもないのに誤解してはならないはないだろう、とおっしゃるかもしれないが、余は多少わかるのである。

そもそも本は、まずは精読するものであろう。余の大学での最初の専攻は哲学であったが、田中美知太郎の弟子であった余の師の一人は、演習での口癖が「テキストを丁寧に読みなさい」だった。また、若い先生で生意気な奴だったから余は授業を取らなかった教官がいたが、彼のあるとき言った「註解書を見るのは自分で読み上げてからのほうが、惑わされなくていい」という言葉だけは覚えている。また、読書百遍意自ずから通ず、というごとく、読んで読んで熟読することによる発見がある。まあ、これらは丁寧な読書の効用を説いていて、それなりに正しいのである。

しかし、そんなことを一生やっていたら日が暮れるし死が来るよ。アメリカの大学教育の基本は広く速く読めだもんね。そして、これがなかなかいい読書のアドヴァイス。広く速く読んでいるうちに自然に速くなる。速読法などというペテン師の本は買いなさんな。みんな嘘だから。そんなことをしなくても自然と速くなるのだよ。

それには訳がある。理由がある。ただし、どんな本でも速読できるということではない。余の場合なら余の専門分野、多分、小谷野先生も先生の専門分野は(小説を含む)自然と速くなるのだ。読み始めると、例えば、まず専門用語が飛び込むとする。すると、門外漢はそこでつまずくところだが、専門家にとっては逆に、瞬時に内容や議論の筋道がそのキーワードで頭に入ってくる。

つまり、ある意味では、多読・速読の積み重ねが「精読」と同じ効果を発揮しているから、斜め読みや飛ばし読みが可能になるのである。同様の例は、米国に限らないと思うがとくに米国では裁判の資料は膨大である。その膨大な資料を短時間で読みこなすのが法曹の世界なのだが、読めるから法曹界に入れたのではなく、入ったから読めるような気がする。

州の判事をしている甥のオフィスは自室と秘書の部屋、それに図書室というか訴訟資料室で、この最後の部屋が多きい。どんなに小さな1ケースでもダンボール1ケースだし(ああ、この英語の冗談わかってくれるかなあ)、書棚1段もめずらしくないのだ。それらの訴訟の内容を、彼は普通に紙をめくる速さで読むがケースが変わっても(ああ、これも掛詞)知悉・既知のことと変わらない。また、彼の専門は経済・労働事件だが数字にはめっぽう強い。

また、飛ばすような場所は、本質的でなかったり、形式的で意味が薄いところなのだが、その判断も重要であり、それがわからなければ飛ばすこともそもそもできない。以上のようなわけで、飛ばしているようで、飛ばしていないのだよ。誤解されても困る。