Comments by Dr Marks

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“Another Recent Scholar” と書かれた余などのこと。先日注文した本が届いたので大変。当分は本紹介ブログかな。とりあえず、約束のホロコースト本。

午後、ブレントウッドのユダヤ人の両替商(くっくっく、典型的)のところから戻ったら、アマゾンから自宅に4冊届いていた。そもそも自宅以外には届かない。公費で本を買えるような身分ではないのだ。他に東京の古い友人の著作も別口で手許に1冊入った。図書館から9冊借りたのでそれにも急ぎ目を通す必要がある。授業準備もある。他に出版企画の仕事もある。家庭シェフの仕事もある。(洗濯は一切しない。汚れたのを着ているからだ。←そんなわけないだろう。やってもらうからだ。掃除もしないな。)だから、猫と過ごす余裕もあるが、基本的には忙しいのだ。

4冊のうち1冊は少し前の本なのだが、ひょっとしてテーマからすると余を引用している可能性があるので、早速後ろの索引を見た。4人がそれぞれ同一のテーマを議論している本で、案の定うち2人が余を引用している。余を称して「別の新進の学者」は云々と書いている者もいる。けなされてはいないようだ。余の師も彼の最新の論文で余を引用したと先日言っていた。今年になって初めてウィキペディアのある項目で余の議論が引用されているのを知った。これも批判的ではなかった。いや、実は批判されてもいい。学問は誰かの目に触れてはじめて生きる。ありがたいことだ。この調子で評判が続けば、80歳を過ぎた頃にハーヴァードの教授だろう。(ハーヴァードよ、前にも言ったが、夏しか教えんぞ、冬はやたら寒くて好かん。)

その本はホンの紹介ではなくいずれ書評として書くかもしれない(日本語でかよ?とも思うが)。今日はとりあえず約束のホロコーストの本を紹介する。ホロコーストの本は腐るほどあるし、余も数冊持っているが、これは中学生以上が対象の写真をふんだんに用いた年代記である。一応、ホロコーストの起源から始め、1933年から1946年までと、その後数年の余波で終わる。

The Holocaust Chronicle

The Holocaust Chronicle

実はホロコーストホロコーストの終了した1945年以前には一般的ではなかった言葉である。その前はヘブル語のショワーやロシア語のポグロムのほうが一般的だったのだが、1950年頃からこの言葉が世界に行き渡った。もちろんこの言葉は昔からあり、ギリシア語のホロカウストス(「全焼」の意味)が起源でラテン語化して中世でも使われていた。

この本のテーマはユダヤ人差別がテーマでありナチスによる歴史上最大の犯罪がテーマであるため、出版に当たってはユダヤ人からの出版助成があり著作権を放棄しているので極めて安い本の値段となっている。また、この本の内容と同じような情報はウェッブサイトで無料で見ることができる(http://www.holocaustchronicle.org/)。

今、ユダヤ人差別と言ったが、ナチスホロコーストは、実はそれだけではなかった。アーリア人とは劣るという理由で黒人やアジア人なども差別されたが、中でもジプシー(ロマとかシンティとも呼ばれる)は社会に馴染まない者としてユダヤ人同様に追放されたり虐殺された。社会に馴染まない者には同性愛者も含まれる。なお、弱者である「社会の役立たず」としての身体障害者や精神病患者も虐殺の対象であった。

この陰惨なホロコーストの歴史の中で、知る人にとっては当然の人たちだが、二人の日本に関係のある人物が取り上げられている。一人はマクシミリアン・コルベ神父だ。彼は戦争になる前は日本に派遣されていたポーランドカトリック神父でありユダヤ人ではない。1941年、アウシュヴィッツの彼と同ブロックの一人ユダヤが脱走した。怒ったナチスは、連帯責任ということで10人ユダヤを選び出し処刑することとした。

その中の一人が(名前も本には書いてある)妻子を残していると泣いて助命を懇願した。すると、コルベ神父は「私には家族はいない」と言って彼の身代わりとなることを申し出て受け入れられた。ナチスは彼を見せしめのため、裸にして地下牢に入れ、飲まず食わずのまま苦しめてやろうとしたが2週間経っても生きていたため、痺れを切らしたナチスは毒薬を注射して神父を殺した。

もう一人は日本人の外務官僚だ。この本では名前が Sempo Sugihara となっていたが、普通は Chiune Sugihara だと思う。ロスアンジェルスリトル東京には彼の銅像ユダヤ人の手で建てられている。杉原はリトアニアのコヴノ市にある領事館の領事代理だった。1940年ナチスの迫害が切迫する前、リトアニアユダヤ人たちはカリブ海にあるオランダ領の島に(追放に応じて)移民するという(架空の)計画をたてた。

そのためにシベリア経由で日本に渡り、そこからカリブ海に向かうという旅程であるが、ソ連政府の通行許可は日本への入国ビザにかかっていた。必死の嘆願に同情した杉原は、本国の命令に反してビザ発行を決意した。用紙が足りなくなって手書きで列車の発車間際まで書き続け少なくとも3,500人の命を救ったと言われる。この本は、彼が帰国後免職になったことまで記している。なお、この人たちは日本経由で上海に向かい、そこからほとんどがアメリカとイスラエルに向かった。その人たちにとって杉原は生涯忘れられない恩人だった。