Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

マーティン・リングズ著『マホメット:初期文献に基づく生涯』

Muhammad

Muhammad

先日紹介したチョップラの小説よりも面白い「小説」かもしれない。そう言えば叱られるかもしれない。この伝記は初期の記憶も新しい頃に書かれた文献が基になっている。歴史たらんとする生涯の記録であり、歴史小説でないことは確かだ。

これは伝承であるから、事実の何らかの核の上に織り出されたわけであろう。もちろん織り出されたものの全てが事実なのではないし、核にも虚ろなものがないとは限らない。著者リングズは主な種本を記している。中でもイブン・イシャク、イブン・サッド、アル・ワーキディーの三人からの引用が多い。これらの種本は、キリスト教での福音書のようなものでイエスの生涯が記されたようにマホメットの生涯が綴られている。

種本の中でもイブン・イシャクはモハメッド死後70年ほどして生まれているので、執筆はイエスの死後30数年で書かれた福音書よりもはるかに時を経てまとめられたものだが、福音書よりは伝記としての意図が明確に現れているため、読み応えがある「小説」となっている。しかし、現在伝えられているものはイシャクの元の版ではないらしい。こういったものの英訳などは少ないので、アラビア語が読めないものにとっては助かる著作だ。

本書は上述のごとく多くの種本を基に85の章の中でモハメッドの生涯を記述しているが、始めはモハメッドの誕生ではない。創世記のアブラハムと息子イシュマエル(イサクの異母兄)の話から始まる。旧約聖書の雰囲気と異なるのは、イスラム側の伝承が加味されているからだ。そもそも、アブラハムとイシュマエルがメッカに礼拝所(カバ神殿)を造る話など聖書にはない。もっとも、本書はそのような伝承の出典も脚注で示しているので非常に助かる。

85にも章が分かれているため各章は非常に短く(1章5ページ程度)、また章ごとに小さな主題が完結するので読みやすい。結局のところアラブ人はイシュマエルの子孫であるが、その中でもモハメッドの家系はカバ神殿との繋がりが濃い。実は神殿はいつのまにか360もの偶像が、またそれぞれの部族の神々が巣食うようになっていたのだが、とくにモハメットの祖父の一神教への回帰という役割は大きい。

モハメッドの祖父母や父母の話は、イエスの父母とは異なり、非常に具体的な話が続く。歴史の核は確かにあるように見える。話は、権力闘争だけではなく、恋があり人生がある。そのような豊かなエピソードの中で、モハメッドはいきなり新しい宗教を創唱したのではなく、長い一神教アブラハムとイシュマエルの信仰)への回帰の流れの中で登場した最後の預言者として表舞台に現れる。

このように本書の始まりはモハメッドの前の歴史(伝承)が述べられるが、最後はモハメッドの死と埋葬で終わる。えー、モハメッドも昇天の話あるんじゃん、と文句を言われるあなた、それはイエスのように死後復活してではなく、モハメッド50代の話であるから(モハメッドは61あるいは62歳で没した)、本書でも前のほうに出てくる。

さて、マホメッドの昇天であるが、夢で行ったんでしょ、などとこちこちのムスリムにゆめゆめ言ってはならない。彼らは実際にモハメッドが天国に行ってきたと信じている。そうそう、著者について述べるのを忘れていた。

Martin Lings (1909-2005) はイギリス人でプロテスタントの家庭に生まれたが、親の仕事の関係で米国で育つ。後にイスラム教のスーフィー派(Sufism)に帰依した。その事情は次のようなものであった。彼は初めオックスフォードのC.S.ルイスの許で英文学を修めリトアニアの大学に赴任したが、後にエジプトに滞在していたときにカイロ大学で英語を教えていた友人が事故死したため、その人の代わりに教えることになった。

その間にイスラム教に惹かれ、ムスリムとなり、英国に帰国して大英博物館に勤めた。同時にロンドン大学イスラム学で博士号を取得し、その後は大英博物館の上級研究員として過ごす。また、生涯で12冊の著作を発表し、イスラム学者でイスラム教擁護者として世界各地の大学で講義・講演も行った。