Comments by Dr Marks

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ヴィルニウス市のイーディッシュ朗読会に参加して(記事:チャーリサ・ブレマー)


リトアニア・トリビューン(Lithuania Tribune)という英字新聞があって、昨年までリトアニアに留学していたアメリカの女子学生(Charrisa Brammer)が寄稿している。ヴィルニウスはリトアニアの首都である。かつて大きなユダヤ人社会があったが、今は小さいなものになっている。昨年2010年6月30日の記事だが全文翻訳して載せる。(http://www.lithuaniatribune.com/2010/06/30/visiting-yiddish-reading-circle-in-vilnius-by-charrisa-brammer/

休暇で帰郷するためにリトアニアを離れる数日前、ピリモ通り4番地にあるユダヤ・コミュニティー・センターで行われる週一回のイーディッシュ朗読会に参加する機会を得た。最後の生き残りのリトアニア系イーディッシュ語を母語とする人々や学生、更に、たとえ少しも理解できないとしても、イーディッシュ語の音楽を聴くために、私のようにそこに滞在している人々が集まっての、自由参加の催し物である。20代初めから80歳代かそれ以上の年代の人が、おそらく15人ほどいた。何語であれ、それぞれが楽だと思える言語でお互いに挨拶するので、会の始まりはうるさいものであった。

いよいよ会が進行すると、話題がどのように転ずるとも、主要な言語はイーディッシュ語となる。読書用の文献が配られると、それを代わる代わる読んでいくのだが、イーディッシュ語のお互いの発音〔の違い〕を訂正するためや、あちこちの方言の微妙な点を議論するために、互いに割り込んできて発言する。言葉や表現の意味について論争があるときは実に面白かった。まず、〔誰かが〕口でもごもごとつぶやくことから始まれば、例えば私の隣席の人が、そのことをまた隣の人にロシア語で説明してみたり、リトアニア語ならどんな言葉になるかを決めるために、お茶を出してくださっている女性を呼んでみたりするのだ。英語、リトアニア語、ロシア語、更にイーディッシュ語と、皆一時に己の考えを表明する面々で、議論はしばしば白熱する。部屋の片隅に座り、なるべく身を小さく〔目立たなく〕しようとしていると、脈絡なく一つの言葉だけは聞き取れる。「ポニマエーシュ?〔わかりますか?または、わかるでしょう?〕」と、誰かが聞いてくるのだが、苦笑せざるをえない。一種の喧騒という言語に囲まれてしまった私が理解できる単語は、それだけなのだから。

この〔騒音の〕真っ只中にあって、私は、第二次世界大戦前にヴィルニウスの通りを歩いているようなことがあればそうであったに違いないものを聞いているというかけがえのない機会を享受していることに気づいた。死の収容所やパネリアイ虐殺でユダヤ人の人口が激減する前、さまざまな残忍で狡猾な手段をもってソ連政府がリトアニア人の意識も精神も思い通りにしてしまう前のことだ。ヴィルニウス(ヴィルノとかヴィルナとも言われた)が本当に国際都市であったときの市場で響き渡っていたであろう雰囲気なのだ。たぶん〔この〕ピリモ通りで、ロシア語からイーディッシュ語に、ポーランド語からリトアニア語に、そして誰もが互いに理解し合えるまで、軽々とあちらの言葉からこちらの言葉へと切り替える、このように穏やかな雰囲気の議論が聞けたであろう。

過去50年あるいは100年のうちにこの都市が遭遇した文化の喪失ということに思いを馳せるなら、ヴィルニウスの通りを歩いていて、時々、私はそのように考えざるをえない。私は決して歴史家ではないし、ヴィルニウスの市史を学ぶ者でさえないが、耳にするあらゆることが、この都市がどれほど凄まじい損失を被ったかを思い知らせてくれる。かつてのユダヤ人街を歩けば、イーディッシュ語で書かれた記念碑や小さな標識を目にするが、北のエルサレムとして知られ、10万人以上のユダヤ人が家庭を営む都市の一部であった時代の様子を〔それだけで〕知ることはないであろう。その後も20年間後遺症に対処することになった、50年間の圧制の物語を如実に叫び、迫り来る化け物のようなソ連式アパート群抜きに、この都市を歩くことはできない。

ヴィルニウスの通りを歩くときは、ほとんどの時間、私は、私の人生と私の仕事だけを考えている。すると、心地よい背景、日常の生存のための活動を続ける際に、行くべきさまざまな活動や買うべき品物などの点で、他の都市とほとんど変わらなくなる。しかし、時には、戦争前のヴィルニウスの種々の言葉に囲まれたり、それまで見たこともない小さな通りにたまたま差し掛かると、私が故郷と呼んでいる美しい都市の、まさに大きな部分であった幸福と苦難の教訓を学ばせるために、待ちつ待ちつつある生きた亡霊のように、歴史が飛び出して来るのである。