Comments by Dr Marks

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映画“The Adjustment Bureau” をめぐる神学的課題(運命と自由意志)−特別試写会と合評会

先日紹介した(http://d.hatena.ne.jp/DrMarks/20110205/p1)3月4日封切のこの映画の特別試写会と合評会に希望通り招待枠に入ったので細君と一緒に行ってきた。合評会は終り近かったと思うが帰りが混まないうちにと思って途中で出てきた。場所はパッサディーナ市のArcLight劇場。その第二劇場で7時から映画、9時から合評会であった。

主演のマット・デイモンエミリー・ブラントは、調整局が運命づけている人生(プランplanと言っていた)に逆らって自由意志で未来を勝ち取るという映画だ。一種の村上春樹の小説的で、異次元の世界があり、現実の世界はさまざまな扉でさえぎられている。さえぎられているということは、逆にその扉が別の世界に直結しているとも言える。

その際には、あらかじめプランを見て、かつ帽子をかぶって(ユダヤのヤマカでもいいそうだ)扉を潜り抜けていかなければならない。また、潜り抜ける際に帽子をかぶった人に手を引かれて行くならば、引かれた人も一緒に入ることができる。運命(プラン)に逆らって男が入るとき、女も同様に決断する。さまざまな強烈なアクションの末(マットにはスタント役あり)、ハッピーエンドに終わるのだが、調整局の議長裁定で主人公らの意思に従ってプランが書き換えられたのである。

まあ、考えてみれば他愛のないハルキ映画で、馬鹿らしいといえば馬鹿らしいのではあるが、映像は楽しめる。また、登場人物すべての性格がいいのは後味がよい。そこで試写会の後に、キリスト教を代表するというか、フラー神学大学院の文化学教授ジョンストン(Robert Johnston)が司会して、ユダヤ教側にタマル女史(Dr. Tamar Frankiel)、イスラム教側がジハッド師(Im. Jihad Turk)、そして監督・脚本のジョウジ君(George Nolfi)がパネリスト。フロアからも意見を募るという形式だ。

監督は哲学を学んでいるが、他の三人は神学的な見地からの神の意思(運命)と人間の自由意志を語ると思ったが、かならずしもそうではなかった。また、誰もアウグスチヌスを挙げなかったのは意外であった。ともかく、余がいつも言うように、この映画のように単純化して運命と自由意志を対立させて議論するのが伝統ではあるが、実際に現実世界では「何が運命なのか何が自由意志なのか」判然とはしないわけであるから議論そのものが破綻する。

まあ、そう言っては元も子もないが、監督は宗教とは離れ(まさに哲学分野の人間だが)一般性のある二項対立にして考えてほしかったと言っていた。ジハッド師は神の計画の優位性を述べ、タマル女史は神の介入など滅多にないと述べた。映画の如く神の摂理(運命)が人間の自由意志に負けるという図式を無邪気に喜んでいたのはキリスト教のジョンストン教授だけかもしれない。なお、タマル女史は、運命と自由意志という対立が主なるテーマであるが、情意(パッション)と理性というサブテーマもあるのではないかと指摘していた。そうかもしれない。人生は熱情で爆発だもの。(ネタばれになるからよそうと思ったが、書いちゃう。実は、本気でキッスすると、運命のほうが負けるのだ。キッス? ブチューのチューだよ!)

あっ、そうそう、忘れるところだった。観るべきか観ざるべきかね。一応、観ることをお薦めしておく。プロダクションの若い社長も来ていて一生懸命だったし、ジョージ君もいい男だからヨイショしておくよ。えーと、ユニヴァーサル映画の配給。日本にも行くでしょう、そのうち。