Comments by Dr Marks

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 第6章 緑の四十の色合い

 バリーは、おとなしく助手席に座っていた。彼もオライリーベルファストからのドライヴ中は押し黙っていた。ジーニー・ケネディーの検査をオライリーが何ゆえ中断したかについてのちょっとした議論のせいである。
 しかも、いまいましいことに、オライリーの説明を考えれば考えるほど、この老人、つまり老練な医者のほうが、患者に不必要な負担を掛けさせないということで正しかったと思えてくるのである。おそらく、オライリーの粗野な正面からは見えない優しい側面があるのだろう。
 バリーがそんなことを思いめぐらしていると、車がキャンベル・カレッジ〔注一〕の赤レンガの壁に差し掛かった。彼の医科大学に行く前の母校だ。もう卒業してから七年も経っている気がしない。キャンベルでは四年間寄宿舎生活をした。
 そこでの寄宿生は、ネルソン提督の海軍の伝統を踏襲することと言われていた。すなわち、ラム酒、男色、ムチ打ちの仕置きだが、ラム酒に慰めがあるわけではない。もちろん、すべてが文字通りではないが、何かの規則の些末な違反で、バリーも先輩の寮委員に叩かれたことはある。
 また、親友もそこでできた。ジャック・ミルズという男で、ロイヤル・ヴィクトリア病院〔注二〕で外科の研修中だ。ジャックとバリーは、キャンベルの上級生時代に一緒で、医学生の頃もインターンの時もつるんでいた。
 バリーはジャックに電話して、今度の初めての土曜の休みに会えるかどうか聞いてみることにした。オライリーについてのジャックの意見が楽しみだった。
 車は市街地の混雑を抜けた。オライリーはアクセルを吹かし、ローヴァ―車を曲がりくねったクレイグアントレット・ヒル通りを疾駆した。バリーは、生垣が窓をかすめる前方を見つめ、あわや車輪が道路際に突っ込みそうになるので身を固くしていた。
 オライリーが何か言った。
 「えっ、今何とおっしゃいました?」
 「『家まで、あっと言う間だ』と言ったんだ。」
 いや違う、家に着く前に車がひっくり返っているかもしれない、とバリーは思った。
 「鳥のように走り、ザ・ストレートまで登っていって、そこで文字通りこの鳥を空に放つこともできるぞ。」
 オライリーがそう言ったが、バリーは今ここで自分を解放してもらいたいものだと思った。改めてオライリーを見て驚いた。彼は片手で運転しながら、もう片方の手でパイプの火皿の上にマッチを押し付けているのだ。
 「オライリー先生、少しスピードの出し過ぎではないですか。」
 「馬鹿なこと言っちゃいけないよ、君。」
 オライリーは激しく燃える石炭の蒸気機関のように煙を吐きながら、車を大きく旋回させた。
 バリーは頭を抱えた。反対から来る干し草を摘んだトラックをすんでのところでやり過ごしたのだ。背もたれに体を戻したときには、道路が水平線に向かって真っすぐになっているのが見えた。
 そういえば、父親は何度となくバリーをキャンベル・カレッジに送り迎えしてこの道を運転してくれたものだと思い出した。表面の光ったアスファルト道路が両側の山の起伏に沿って続いている。ここは氷河によって押し上げられた土砂が山になったところで、氷河期末期の産物だ。
 左側は、大きな新石器時代の丘を利用した砦〔注三〕であることを知っていた。このアイルランド島の端に住んでいた数千年前の古代ケルト人が築いたものだ。
 また、そこには十二世紀なってノルマン人が来た時に造られたダンドナルドすなわち「ドナルの砦」という名の掘割に囲まれた墳丘墓の構築物も残されている。オライリーがスピードを緩めなければ、コントロールを失ったローラーコースターのように、車は斜面ん沿ってロケットのように飛んでゆくから、恐らく新しい墓が二つ必要になる。
 バリーは、深く息を吸い込んだ。胃の奥にわいたむかつく気持ちを納めるためだ。落ち着くんだ。せめて、ザ・ストレートが早く終わってほしい。そうすれば、オライリーはスピードを緩めざるをえない。
 少し、スピードが弱まった。次の角に差し掛かると車が揺れる。オライリーが嘆息する。
 「ああ、いい気分だ。むちゃくちゃ素晴らしい。こういう道路は好きだねー。」
 「この糞・・・」と、バリーは苦しい息の下で小さくつぶやいた。そのとき、なぜか突然、トードホールのトード氏〔注四〕が盗難車で英国の田舎を爆音と共に行く幻を見てしまった。
 車が田舎道に差し掛かると、オライリーは、「もうすぐだぞ、あのバリーバックルボーの丘が我らの家だ」と言って、自分の時計を見た。
 「あと十分で後半戦だ。」
 車はどんどん進む。葉の生い茂ったエルムの樹が太陽をさえぎって、田舎道に古い教会の陰鬱で厳かな雰囲気を投げかけていた。道と草地の境の石積みの塀を抜けていく。草地には羊と牛が草をはみ、草原の緑に対照的な黄色の花をつけたエニシダの藪がしっかりと生い茂っている。
 車が小高い丘に乗ったとき、眼下にバックルボーが見えた。村はメイポールを囲む形で固まった家々やアパートが中心部を形成し、その輪郭は丘の中腹から鉄道路線までまばらに広がっている。そうだ、あの列車で、今度の休みが来次第、ベルファストに行くぞ。
 単燈式の交通シグナルが見えた。そこはオライリーが海辺に通じていると言っていた道のあるところだ。砂丘と銀色の雑草の群生の上を、白い鳥の群れが輪を描いたり急降下したりしたかと思うと、潟の泡立つ波に向かって飛び立って行った。
 一隻の貨物船が、波をかきわけて進んでいく。行き先はベルファストの港だろう。バリーは、その船首の先に、港にあるハーランド・アンド・ウルフ造船所のクレーンが想像できた。クレーンは、靄の掛かった工業地帯の空を背景にして誇らしげにそびえている。市内を覆っているその靄は、ノッカーフ・モニュメント〔注五〕のオベリスクまでも、あるいはケイヴ・ヒル〔注六〕の頂上の花崗岩の指までも染みにしてしまう。
 ベリーは車の窓を下ろして田舎のきれいな空気を吸い込んだ。頭上でヒバリがピーチクピーと鳴き、ウズラクイナが近くの草原でギーギーと騒いでいる。クラシック音楽とロックンロールの鳥の世界のような気がした。
 自動車は一番村はずれの家を通り過ぎた。
 「間もなく我が家だ」とオライリーが言った。
 「我が家?」とバリーは心で思った。オライリー先生にとっては、確かに我が家だろうが、僕にとってはまだ疑問だ。
 オライリーは左を一目素早く覗くと、静かに言った。
 「さあ、ここだ。この角を曲がったら信号を越したところだ。」
 左折してバリーバックルボーの大通りに入ると、信号待ちしている赤いトラクターの後ろでブレーキを踏んだ。
 バリーは、トラクターの主を何となく知っている気がした。角型の顔と度肝を抜く赤毛は、どこかで見かけている。
 信号が青になり、おそらく前の運転手をせかすつもりなのだろう、オライリーは警笛を鳴らした。トラクターの主は、座席にふんぞり返った。バリーはやっとわかった。男は、シックスロードエンズで道を教えてくれて、オライリー先生の名前を出したとたん逃げて行った自転車乗りだ。
 あの出っ歯の若者は、今は後部の窓越しにこちらをにらむと、前に向き直ってトラクターのエンジンを止めてしまった。信号はそうこうするうちに赤になってしまった。
 「糞ガキめ、さっさと動け!」オライリーがうなる。
 トラクターのスターターが、ウィーンウィーンウィーンと鳴ったが、エンジンは掛からない。信号は青になった。しかし、ウィーンウィーン、プツッ、とスターターが止まる。
 「畜生め!」オライリーが怒りで真っ赤になると、信号も赤に変わった。スターターの音が二オクターヴ上がってキュイーンフューとなっても役には立たない。
 もう一度信号が青に変わった。バリーが後ろを見ると、自動車とトラックが大通りに列をなしていた。何台もの警笛が加わった。
 オライリーは次に信号が赤になったすきに、車外に出てトラクターに歩み寄った。それから信号がまた変わるときに、バリーは唸るエンジンと鳴り響く警笛に混じってオライリーの怒鳴り声を聞いた。
 「ドナル・ドネリー、人間として生きてることが悲惨なら口に出して言え、こっちが理解できるように答えてみやがれ! お前の気に入る特別な青信号になるまで待つ気なのか、おい?」
 
 
      * * *

 バリーは、オライリーの家に着くなり、泥だらけになってしまったよそ行きのズボンと靴を脱いで着替えると、二階の居間に上がってテレビ観戦に加わった。U2ラグビーアイルランド・チームがスコットランドを下した。
 バリーは、ミセス・キンケードが作ってくれたロブスター冷サラダの最後の一口を終えると、肘掛イス脇のコーヒー・テーブルの上にその皿を置いた。オライリーは満足してげっぷをすると、海側の窓から覗きながら言った。
 「台所の魔術師というのは、まさにキンキーのことだな。」
 「まったくです。」
 冷たい食事も美味だった。
 「彼女がいなかったら、どうすればいいかわからないんだ。」
 オライリーは、サイドボードにふらっと向かいながら聞いた。
 「シェリーを飲むかね?」
 「ええ、お願いします。」
 バリーは、オライリーがバリーにシェリー酒を少し注いでくれ、自分自身にはアイリッシュ・ウィスキーをたっぷり注ぐのを見ながら、彼の言葉を待っていた。彼は、バリーにグラスを渡すと、肘掛イスに戻った。
 「今までずっと彼女と一緒にいた気がする。キンキーがいなければ診療なんてできなかったろう。」
 「何ですか、それは?」
 「ここに赴任したのは一九三八年だった。フラナガン先生の助手としてだが、不愛想な爺さんでね。私は医大を出たばかりでも、決してあなどれない若者だった。ところが爺さんときたら極めて時代遅れ。例えばだ、その当時でさえ、やっちゃならない非常識な治療をするんだ。
 「本当ですか?」
 あいづちを打ちながら、バリーは自分がにんまりしてしまったのを悟られまいとした。
 「爺さんの大きな関心は・・・まあ、彼が私に忠告したことなのだが・・・バリーバックルボーだけに見られる不思議な病気なんだ。それが、非熱性の鼠蹊部膿瘍。」
 「何ですって?」
 「非熱性鼠蹊部膿瘍〔注七〕だ。爺さんが言うには、力仕事の男に多く発症したそうだ。爺さんはいつも切開治療した。」
 「手術したんですか、ここで、この村で?」
 「総合医は戦前ならしたんだよ。今はまったく変わってしまったがね。我々は外科は病院に回さなきゃいけない。まあ、それが最良でもあるが・・・私が最後に盲腸を取り出したのは懐かしいウォースパイト〔注八〕の艦上だよ。」
 オライリーは、ゆっくりと酒を一口飲んだ。
 「ともかく、フラナガン先生は『非熱性鼠蹊部膿瘍』と私に言ったんだ。それから、『切開したときに膿は出ない。ガスと便だけだ、それから四日ほど後に患者は死ぬ。』ともね。」
 バリーは驚いて、ふんぞり返っていたイスにまっすぐ座り直した。
 「フラナガン先生は、脱腸つまり鼠蹊ヘルニアを腫瘍と診断したんですね。」
 「その通りだ。だから、脱腸にメスを入れるということは次に必ず・・・。」
 「腸を切る! 何ということだ。で、オライリー先生はどうなさったんですか。」
 「大変な間違いをしてるんじゃありませんかと、知らせようとしたさ。」
 「それで?」
 「私がフラナガン先生に考えを改めるように言ったのは一度だけだ。田舎の総合医の中には、どれほど気難しくへそ曲がりでなのがいるか、君は想像もつくまい。それに、私はお金も必要だった。あの頃は、仕事にありつくのが難しかった。」
 「今とは違いますね。」
 バリーは、シェリーのグラスを唇に付けたままで、表情を隠しながら言葉を継いだ。
 「そのまま、先生がここに留まったのは驚きです。」
 「いや、違う。翌年にドイツに宣戦布告したのですぐさま海軍に志願したんだ。」
 「じゃあ、何がこの村に復帰させることになったんですか。」
 「戦争が終わったとき、海軍はもううんざりだった。だからフラナガン医師に手紙を書いた。すると、彼の家政婦だったミセス・キンケードから返事が来て、フラナガン医師は亡くなり、診療所は売りに出ていると書いてあった。」
 「それで買ったわけですね?」
 「そういうわけだ。除隊後の退職金があったし、銀行からの借入金を足して、建物と診療所の営業権を買い、ミセス・キンケードには、そのまま働いてもらうことにした。一九四六年からだよ、我々は。」
 オライリーは、自分のグラスが空になっているのを見つめてから、バリーのグラスもひったくって、言った。
 「鳥は一つの翼では飛べん。」
 「私もその通りだと思います。」
 「さあ、座りたまえ」と、もう一杯ついだグラスを手渡しながら、オライリーが言ったのでバリーは座りなおすと、オライリーも同じようにした。
 「どこまでだったかな?」
 「お話は、診療所を買ったところまでです。」
 オライリーは、自分のグラスを大きな両手で抱えてつぶやいた。
 「それから、すんでのところで、最初の一年間で潰れるところだった。」
 「いったい何があったんですか。」
 「田舎者どもだ。君がようやく慣れてきた連中だよ。しかし、色んなことを一時に変えようとした私の間違いだった。初めの頃の患者に、君も見たことがないような、大きな脱腸ヘルニアの農夫がいてね。」 
 バリーは笑ってしまった。
 「非熱性鼠蹊部膿瘍! フラナガン医師のように切開したんですか。」
 しかし、オライリーは笑わなかった。
 「恐らく、そうしたほうがよかったんだろうな。私が切るのを拒むと、その男は、私が医業を知らない若造だと言い広めてしまった。患者は来なくなった。」
 ゆっくりとグラスを傾けると言い足した。
 「だから、月々のローンが払えなくなった。」
 「それは、心配だったでしょう。」
 「ああ、死ぬほどね。既に言ったように、キンキーが救ってくれなきゃ、とうに潰れていた。彼女は長老派だよ、知ってたかね。」
 「コーク州出身ですか。」
 「コーク州じゃ皆が皆カトリックじゃないからね。」
 「確かに。」
 「彼女が私を連れて教会に行ってくれたんだ。地元の人たちが、私を信心深いキリスト教徒だと思い込むようにね。」
 「それが大事なんですか、ここでは。」
 「いや、その頃のことだよ。」
 「ひょっとしたら、まさにこの小さな村では、いまだに新旧両派の宗教戦争があるということですか。」
 「もはや、それはないね。彼らにとっては、自分たちの医者が教会に行くのが単に好ましいということだ。何であれ、どこかの教会や礼拝堂に行ってる限り、問題はないわけさ。」
 「それは安心しました。ベルファストで起こったディーヴィス通り暴動の際には、プロテスタントカトリックの争いによる死傷者の世話にずいぶん時間を費やしたものです。あれは、とてもひどかった。」
 「ここでの状況を君は知らないからね。オトゥール神父とロビンソン牧師が毎週月曜日に一緒にゴルフしてるよ。」
 オライリーはパイプを取り出すと、目の前のテーブルに置いていた缶からエリンモーアのフレーク状タバコを出して火皿に詰めだした。
 「七月の十二日にね・・・今度の木曜日だが・・・プロテスタントのオレンジ・ロッジ兄弟団がパレードして、バリーバックルボーのカトリックの半分も勢揃いするんだ。皆、ユニオンジャックをはためかせてね。しかも、シェイマス・ガルヴィン団・・・知ってると思うが、あの、いわゆる時代遅れのカトリック集団も、バグパイプのバンドを繰り出すんだ。」
 彼は、マッチをすりながら話を締めくくった。
 「ともかく、キンキーとは、そういう人だ。」
 「なるほど。」
 「ああ、二人して教会に繰り出したときだが、キンキーは一番いい帽子をかぶり手袋もはくが、私は一張羅の背広だった。」
 バリーは、自分の泥だらけのコーデュロイのことを残念に思いながら聞いた。
 「二人で教会の席に座ったとき、何人かは振り返って見ていたね。誰かが、ありゃあ尻と腕の区別もつかない若い医者だと言ってるのも聞こえた。説教の間、首を回して、ずっとこっちを見つめているのもいた。どうも居心地が悪い。」
 「お察しします。」
 「君は<神の摂理>なるものを信じるかね。」
 バリーは、冗談を言ってるのかと、オライリーを見つめた。因みに、大男の目は見据えたままなので、冗談でないことは明らかだ。
 「まあね、私も信じてなどいなかった。あの特別な日曜日までは。最後の讃美歌の途中で、最前列の大きな男が、伝説の妖精バンシーのように泣き出した。胸をつかみ、阿鼻叫喚のうちに倒れてしまった。皆が歌うのを止めると、牧師が言った、『お医者さんがいるはずですが』。するとキンキーが猛烈な一突きを私に、『さあ、行って何かしてあげて』と投げかけた。」
 「それで、先生は何をしたんですか。」
 「カバンの中から聴診器を取り出すと・・・あの頃は、医者は診察カバンなしに出かけることはなかったんだ・・・通路を急いだ。男は、薫製ニシンのように青くなってる。脈拍、心臓ともに停止。危篤状態だ。」
 「当時、心肺蘇生機器はあったんですか。」
 「何もない。サルファ剤を除けば抗生物質だってめったに手に入らなかったんだ。」
 「じゃあ、手詰まり立ち往生?」
 すると、オライリーはいかにもおかしそうに笑った。
 「そうだったとも言えるし、そうでなかったとも言える。自分の評判を得るための絶好の機会と取ったね。『カバンを持ってきてくれ』と叫んで、私は例の男のシャツのボタンをはずしにかかった。キンキーがすぐにカバンを持ってきてくれた。中にある手っ取り早い注射液をつかむと注射器に吸い込み、そいつの胸に突き刺した。
 それから聴診器を押し付け、『生き返った』と言った。すると、会衆の驚きのため息が離れたドナディーの町まで聞こえるほどだった。そのまま数分待って『また死んだ』と言ってから、もう一度注射した。今度はざわめきが一層響き渡る。期待に応えて『また生き返った』と宣言してやった。」
 「その男が死んだり生きたりしたんですか。」
 「それはありえん。まな板の鯉のようにじっとしたままだが、もう一本注射したんだよ。」
 「教会で、しかも村人の半数の目の前で、一人の男の気を失わせて、それがどうして診療所を守ることになったのか、よく理解できません。」
 「キンキーが手配してくれたんだよ。先般逝かれた先生が、私について役立たずの医者だと評価してたのを、誰かが不満に感じていたというのを聞いてね。私はそのために、通路の男のように死に体の状態だった」
 「無理もないです。」
 「『ちょっと待ってて』ってキンキーが私に耳打ちしたんだ。彼女は牧師を見つめながら、『牧師先生、救い主イエス様はラザロを生き返らせたんでしたわね』と念を押すから、牧師はうなずいた。終戦記念日の黙祷のような静けさがあって後、キンキーが口を開いた。『ただし、イエス様は一回だけ生き返らせたのに、ここにおられる私たちのお医者様、オライリー先生は二度もなさいました。』」
 オライリーは残った酒を飲みほしながら、言い足した。
 「それ以来、私は休む間もなく働かされているわけだ。」
 「かくして老練に・・・。」
 玄関ホールに呼び鈴が鳴り響いた。
 「まあ、そういうわけだ。さあ、若い先生、ちょっと玄関まで行って誰だか見てきてちょうだい。」
  
 
      * * *

 バリーが玄関のドアを開けた。すると、腕組みして脚を広げて踏ん張った男が入口の階段に立っていた。彼は、ほとんど球体と言ってもいいくらい、背が低く丸々としていた。黒い三つ揃いの背広を着て、山高帽をかぶり、怒っていた。その怒りは、バリーからすると、ロシアのイヴァン恐怖帝〔注九〕に仕える者が何か難しい状況に直面したときのように思えた。
 「オライリーはどこだ。」
 訪問者は今にも踏み込む勢いだ。
 「オライリー、出てこい、話がある!」
 ドスの利いた声で怒鳴る様子は、暴風の中で後甲板の船長が帆柱上の見張りに叫んでいるようであった。
 「オライリー、下りて来い、今すぐだ!」
 すぐに二階で動き出した気配がした。たぶん、この訪問者は、オライリーに怒鳴ることが獰猛なドーベルマン・ピンシャー犬の目に棒を突っ込むくらいの効果があることを知らない。
 「私がご用件を・・・。」
 「あんたのことは知ってるよ、ラヴァティー。」
 訪問者は、向きを変えて思案中のバリーを直視した。ここに来て一日しかたっていないのに、彼のことはすぐに知れ渡っていたのだ。
 「あんたじゃなくて、オライリーに用がある。」
 バリーは、固まってしまった。F・F・オライリー大先生の医療原則第一に違反する患者が今まさにここにいるのだ。バリーは上目づかいにオライリーが下りて来るのを見た。オライリーがこの男をすぐに追い出すであろうことはわかったが、バリーとしては自分なりにこの男と対峙する覚悟でいた。
 「私はラヴァティー医師です。何か不都合が・・・。」
 小柄な真ん丸男の目が光った。
 「医者だと? はっ! 俺が誰か知ってるのか?」
 バリーは、「どうして、おわかりいただけないんでしょうか」と言ってはみたものの、役には立たない。
 「俺はフリーメーソン評議員で、バリーバックルボー・オレンジ教区の司教であり、礼拝主任だ。覚えておけ。」
 そう言っている男の背後にオライリーが立った。
 「今晩は、評議員殿。どうされました? まさか非熱性鼠蹊部膿瘍ではないでしょうな。」
 オライリーの口調は丁寧であるが、バリーに送った目配せは悪魔的であった。
 フリーメーソン評議員で司教様である真ん丸男は、見上げるようにしてオライリーに向き直った。オライリーは微笑み返すが、バリーには彼の鉤鼻が明らかに青白んだのが見てとれた。
 「オライリー、指が変なんだ。」
 彼は右手の人差し指をオライリーの鼻の下に突き出した。バリーも皮膚が見えた。赤くて爪床が腫れたために光沢が出ている。その下は黄色の膿だ。
 「痛くなってきたんだよ。」
 「あれ、まっ。」
 半月形の鼻眼鏡を掛けながらオライリーが声を上げる。
 「さあ、何とかしてくれるんかい?」
 「手術室に入ってくれ。」
 オライリーがドアを開けたので、バリーも彼らの後について中に入り、オライリーのしていることを見ていた。彼は、戸棚から手術用具を取り出すと鉄製の滅菌槽に浸してスイッチを入れ「一分もかからん」と言った。
 「そりゃあ、いい。私も忙しい身だから。」
 司教殿は、そう言って、でっぷりした尻を回転イスに下ろした。
 「で、奥さんはどうかね」とオライリーが話しかける。
 「おい、そんなことはどうでもいい。急いでくれよ。」
 「了解」と言って、オライリーは台車を司教に向かって押し出した。台車の車輪がきしむ。滅菌槽があぶくを立て、蓋の下から蒸気が筋になって噴出している。戸棚に行って布で包んだ物を取り出すと台車の上に置いた。
 「ラヴァティー先生、包みを開けてください。」
 バリーは、包みを開けてみた。中には、緑の無菌タオル、無菌綿棒、スポンジ鉗子、ステンレスの薬壺、膿盆、手術用手袋があった。オライリーが手を洗っている水の音がする。バリーは、これから何が起こるか何が必要か、わかっていた。
 少なくとも、消毒薬、滅菌槽内の道具、部分麻酔薬・・・まさか、部分麻酔をしないことはあるまい。膿瘍に何もしないでメスを突き刺すことはないだろう。
 オライリーが手袋をはめるパチンパチンという音がした。
 「デットル消毒液とジロケイン麻酔薬は台車の下にある。」
 バリーは、部分麻酔と茶色の消毒剤を取り出し一安心した。オライリーが、痛みを感じないようにしてから膿瘍を切開するつもりなのがわかったからだ。バリーは、デットル消毒液を台車の上の薬壺に注ぎ、消毒液のビンは台車の下の棚に戻した。
 「ありがとう」と言って、オライリーは、スポンジ鉗子の両端に綿を詰め込んだ。
 「さあ、司教殿、この盆の上に指を突き出して・・・。」
 「さっさと、やってくれ、先生。」
 滅菌槽のベルが鳴って、手術道具の用意が整い、まさに司教殿が間もなく「ううーーーっ」と声を殺してうなるばかりである。
 確かに、痛い。バリーは、デットル消毒液の痛みが噛まれたようなものであることを知っていた。消毒済みピンセット、メス、注射器、それらを取り出しオライリーの台車に並べながら、聞いた。
 「局所麻酔ですね。」
 「その通り」と答えながら、オライリーが注射器を構える。
 司教殿は、固く結んだ唇から短い息が漏れてちょっと動揺したような音を立て、大きく見開いた目で注射針を見つめた。
 「指の局所麻酔をするつもりだ。」
 そう言って、オライリーは麻酔薬の入ったビンのゴムの蓋に針を突き刺し、注射器に吸い込んだ。
 「刺すよ。」
 警告すると、人差し指と中指の内側の指間膜に注射した。
 「うぅ、あぁ、うぃー」と司教殿がうなる。
 「悪いな。はい、反対側も。」
 外側のこぶしの間にもジロケイン麻酔薬が入る。
 「ふーいー、うー」と、イスの上で身をよじる。
 「あんたが急いでいるのはわかるが、神経ブロックが効くまで待たなければならないんだ。」
 「わかった。まかせるよ。」
 司教殿が仕方なく泣き声で応じる。
 「ところで、指の具合はいつから悪かったんだ」とオライリー
 「二、三日前かな。」
 「気の毒に、もっと早く来ればよかったのに。手術はいつも午前中なんだぞ。」
 「今度はそうするよ、先生。神に誓って、そうする。」
 オライリーはバリーに向かって目配せした。バリーは、オライリーの口がかすかに上に傾き、目の周りに小さなしわができたのを見逃さなかった。「やるぞ」と言っている。メスをつかんだ。
 「ほら、何も感じなくなったろう。」
 言うが早いか、オライリーが切り込んだ。バリーは、血と黄色の膿が出ていき、腫れがひいて行くのを見つめた。
 「悪い店子がいるより空き家のほうがいいということだな。あれっ、司教殿、気絶してるようだ。」
 確かに、あの丸い小男は、イスの中でしぼんでいた。
 「困った男だ。」
 オライリーは、傷口を綿棒できれいにしてから、二枚の四角なガーゼで傷口を覆った。
 「自分では名士のつもりなんだろうな。何しろ、この村の土地の半分は彼のものだ。」
 それからロールトップ・デスクを指さして言った。
 「そこに気つけの薬ビンがあるから取ってくれないか。こいつの気絶に付き合って一晩過ごすわけにはいかない。」
 バリーが、その机に歩みながら思ったのは、今まで見たオライリー医師の小さな手術は皆、王立病院のベテラン外科医の技術に匹敵するということだった。だから、何とかして司教殿に、患者が医者に期待するならお互いの礼儀も大事だということを知ってもらいたかった。それは、もちろん医者が患者の優位に立つためではない。しかし、彼らにとっての認識は、この辺りの言い回しにあるように、「ビーグル犬の遠吠えさえ聞こえない」ほど及びもつかない遠いことであった。
 
 
〔注一〕Campbell College は、ベルファストにある北アイルランドの男子中高一貫校。すなわちハイスクール。英国のカレッジは大学ではない。
〔注二〕Royal Victoria Hospital。同名の病院がカナダのモントリオールにあるが、ここではもちろんベルファストの病院。
〔注三〕hill fort。大ブリテン島とアイルランド島に残る遺跡。高地を利用して円形に砦を築いた。
〔注四〕Toad of Toad Hallは一九四七年に映画化されたA・A・ミルン(Alan Alexander Milne, 1882 – 1956)の作品。ヒキガエルのトード氏が自動車に乗って大暴れする。
〔注五〕Knockagh Memorial。ベルファストにある戦争記念碑。オベリスクが立っている。
〔注六〕Cave Hill。ベルファスト郊外の崖。ベルファスト潟(Belfast Lough)を望んで北岸にある。
〔注七〕Cold groin abscesses。鼠蹊部に膿が溜まって腫れるが熱はないという意味だが、病名としては変。
〔注八〕Warspite。英国海軍艦艇の名前。
〔注九〕十六世紀のモスクワ大公・ロシア皇帝イヴァン四世。イワン雷帝とも言う。