Comments by Dr Marks

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聖書の一番短い節は?Twitter @MarkWatermanPhD より

Twitterで出した質問だが答が長くなりそうなのでブログにした。そもそも、こんな質問は馬鹿げていて何の役に立つかはわからん。しかし、昔から言われている笑い話だが、一つだけ役に立つことがあるらしい。

もし、あなたが、あるいはあなたのお子さんか誰か関係者が、教会あるいは教会学校でおかしな先生から(おかしくないかもしれないが)来週までに聖書からどこでも好きな一節を暗記してきなさいと言われたら、一番簡単でお手軽な一節である。同時に、覚えてもほとんど意味のない節ではあるが、前後を理解しているなら無駄ではないだろう。

下の答はいささか長いが結論を先に言えば、ヨハネ伝11章35節ルカ伝20章30節である。

英訳の聖書で見ると斜線で消したヨハネ伝11章35節はKing Jamesなどほとんどの訳が "Jesus wept" であり、確かに短い。私の愛用するNRSVでは "Jesus began to weep" だが、原文は "ἐδάκρυσεν ὁ Ἰησοῦς" であるから、どちらも理に適った訳ではある。日本語訳では、例えば新共同訳「イエスは涙を流された」だが、「涙」とするのは文語訳以来の日本語訳の伝統であろうか。私にはわからない。

私がこの設問をしたときに「何語の訳ですか、原語ですか」などとグダグダ言うな、すっきり答えてみろと言ったが、確かに訳によってはもっと短くなる可能性はある。日本語や英語でもそうだ。人によっては、第一テサロニケ5章17節を上げるだろう。例えば新共同訳なら8文字「絶えず祈りなさい」だから10文字の「イエスは涙を流された」より短いのである。英訳でもNIVなら "Pray continually" だから確かに短い。

なるほど。ならば、どっこいどっこいなのであろうか。では、原語で比べてみよう。こちらは "ἀδιαλείπτως προσεύχεσθε" であるが、やはりどっこいどっこいかな。今までは原語と称して編集の手が加わったアクセント付小文字で表したが、古代の写本なら大文字だけだ。しかも単語と単語の間に境目はない。比べ易いので比べてみる。

ヨハネ伝11:35
ΕΔΑΚΡΥΣΕΝΟΙΗΣΟΥΣ
1テサロニケ5:17
ΑΔΙΑΛΕΙΠΤΩΣΠΡΟΣΕΥΧΕΣΘΕ

勝負あったかな。しかも前者だが "ΙΗΣΟΥΣ" の部分、すなわちイエスの名前は二文字で実際は "ΙΣ" と記されるから更に短くなる。ただし、"Σ" は別の書体 "C" が一般的。

また、"ἐδάκρυσεν ὁ Ἰησοῦς" は三つの単語であるが、真ん中にある冠詞 "" はなくてもいい。確かにギリシア語では固有名詞に冠詞が付くのが普通であるが、なくても間違いではないのであるから、これも取ってしまえばもっと短くなる。

しかし、みんな負けた。(余も見逃してた。データベースに検索掛けて発見。)

ルカ伝20:30

ΚΑΙΟΔΕΝΤΕΡΟΣ

なるほど、短いわ。NIVの英訳ならThe secondだし、新共同訳は「次男」の二文字だけ。

しかし、待てよ、King James を見ると "And the second took her to wife, and he died childless" と書いてあるじゃないか。それに日本語訳だって口語訳は「そして次男、三男と、次々に、その女をめとり」じゃないか。いったい、どうなってるんだ、聖書学者?!

お答えします。底本が違います。どれを真正の(元々の)テキストとするかによって立場が変わるのです。まあ、近年ははシナイ写本、バチカン写本などを底本とするのが優勢になり King James や口語訳が元としたアレクサンドリア写本やワシントン写本の系列は劣勢となったのじゃ。(古さでいえばアレクサンドリア写本も古いんやでぇ。)

ともかく、現在の聖書学者多数に従ったギリシア語底本でいえば、一番短いのはルカ伝20章30節じゃ。伝統のヨハネ伝11章35節は敗退するわ。がっくり、_l ̄l○、(しかし、マジ、実際の写本での「イエス」は二文字だからヨハネ伝とルカ伝の最短節は同じ12文字で同点という屁理屈も成り立つ。)

結論:ルカ伝20章30節が一番短い。しかし、それを知っても何の役にも立たない。それが聖書学。∴聖書学者は貧乏。

「悩むな」の真の意味

余は謙虚で無気力な聖書学者であって牧師の真似事もすることはするが、元々そんなことは嫌なんだ。葬式だけは困っているならしてあげる。しかし、それ以外はあまりしたくない。無気力なんだから。それに近頃はオジンだ。

ましてや説教などはしたくはないのだが、「悩むな」の真の意味について、ちょっと話してみる。ほらっ、マタイ伝6章25節以下の話だよ。(ルカ伝12章22節以下も同趣旨。)何も思い悩むな、空の鳥を見なさい・・・野の花を見なさい・・・という話。読み進めば、こう書いてある。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

ここで誰もが何となく安心する。大したものだ。今日はとりあえず寝ようと元気づけてくれるわけだから。しかし、明日になっても解決していなければどうするんだ。そのときは明後日まで待つか。馬鹿馬鹿しいが、ひょっとしたらそれが正解かもしれない。

そもそも「思い悩むな」とイエスが言うのは、「お前なんか思い悩んでも仕方なかろう」ということなのだ。それは単純に金欠で困っているときでも同じこと。本当に辛ければ居ても立っても居られず、「ああ、神様、お金をください」と願ったり祈ったりはせざるを得ないだろう。それは仕方ないとして、ぼんくら頭で対策など講じても上手くはいかない。ますます嫌気と悩みが身を亡ぼしにかかるだろう。

委ねて放っておくに限る。それこそ信仰だ。もっとも、キリスト教徒は、これがあのイエスのありがたい教えと思っているだろうが、違う。神が何であり人が何であるかを徹底して理解しているなら、ユダヤ教徒も「悩むこと自体が不信仰」であることは常識だ。イエスより後代のタルムードにもあるが、イエス時代の口伝にもあったであろう。イエスがそれを知らなかったはずはないし、福音書に書き留めた弟子たちにも馴染みの話だったに違いない。

おい、君。君が悩まなければ解決しないことなのか。神様より頭がいいと己惚れているわけじゃないよね。君が神様にアドヴァイスするわけ?

えっ、マタイ伝は復活疑いの記録?

ある原稿段階の本の一節より(著作権取得済み) 

 マタイ伝には次のような記録がある。ただし「記録」といっても今日的な客観的な記録と考えてはいけない。何か伝えたいという思いがあって「何か」を伝えているのであって文字どおりではないかもしれないからだ。もっとも現代的な記録であっても記録する者の主観性を完全には消し去ることはできないのだから、そこに「解釈」の問題が横たわっているとはいっても、とりあえずは「文字どおり」に追わざるをえない。
 また、復活に至るもろもろの状況まで本書で紹介するのは紙数が許さないので、基本的には復活したイエスの記事、すなわちイエスが復活して現れたくだりに限定する。もしも読者がその前にまで興味を抱かれるのであれば、前述の聖書を直接手に取られるかネットに上げられている聖書本文を参照いただきたい。
 マタイ伝の出現記録はいずれも二八章にあるが、まず次のくだりを引用する。 

マタイ伝の出現1〔九節〕すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。〔十節〕イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 


 さあ、読んで読者諸君はどのような印象を持つであろうか。ここに「婦人たち」と言われているのは、この引用の前に「マグダラのマリアともう一人のマリア」であると説明されているが(二八章一節)。マグダラのマリアは、イエスに七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女であろう(ルカ伝八章二節参照)。もう一人のマリアは候補者が多く誰なのかわからない。そもそもマリア(ヘブル語はミリアム)という名前は当時も極めて多かった。イエスの母もマリアであった。
 さて、彼女らは、処刑されて死んだはずのイエスが再び生きて立っていると、すぐに認識できたのだろうか。見慣れた人の顔を見間違える可能性は低い。この両人「マグダラのマリアともう一人のマリア」は、イエスが間違いなく埋葬されたのを確かに目撃していたのだから、まず墓の場所は間違いないのであろう(二七章六一節)。では、単に気絶したままか虫の息で墓に入れられたのが三日目に元気になって出て来たのだろうか。それもありえない。死んだことは確かだ。
 なぜなら処刑の場で、「大勢の婦人たち」、中でも「マグダラのマリアヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」が十字架上で死んでしまった一部始終を見ていたのであり(二七章五五−五六節)、死んだはずの者がまさか生き返るとは思わなかったであろう。たとえ当時の人たちでも、そんなことは常識に反していたことは本書の初めに紹介したとおりである。

 もっとも、マタイ伝は、ファリサイ派(律法に厳格でイエスに敵対したユダヤ人たち)の証言として、イエスが生前「自分は三日後に復活する」と言っていたことを基に墓に番兵を置かせたことをわざわざ記録している。だから、婦人たちを含め弟子たちがイエスが生き返ることを期待していたとも取れるが、実際は弟子たちが死体を盗み出した上で「イエスは死者の中から復活したなどと嘘を言うことをファリサイ派が防止したかったからであるかもしれない(二七章六二−六六節)。また、反対にマタイ伝がことさらに墓番について書き記したということは、イエスの弟子側も敵対する側も、単に墓が空であることをもってイエスの復活を証明することができないことを自覚していたと読み取ることができる。
 ここでの婦人たちの行動を判断して、復活を信じて目の前のイエスとみなされる人に取った態度かどうかを見極める決め手はないと、今いきなり私が申し上げたところで、読者はとまどわれることだろう。説明する。聖書学者は、後世の者が思うほど、彼女らがこの場で復活を信じていたかどうかを問題にするし、場合によってはイエスとは別人を復活したイエスと見誤ったかもしれないとも考えるのである。
 もちろん、マルコ伝の著者はイエスの復活のくだりを伝えようとしているのであるから、意図を読み取れば、彼女らが遭遇したのは復活したイエスであるというのが正解である。純粋に信仰の立場に立てばそれでいい。それならば聖書学者は疑っているのであろうか。いや、問題にすることと疑うことは必ずしも同じことではない。むしろ(すべてとは言えないが)多くの聖書学者は熱心なキリスト教徒であり、しばしば護教的になることすらある。従って、問題にするというのは、否定的な問題提起というよりも、より深く聖書を理解しようとする態度の表れにすぎない。では、ここでの問題を少し考えてみよう。

 聖書本文の「足を抱き、その前にひれ伏した」行動は、確かに高貴な者への敬いの態度であるし、「ひれ伏した」と訳されているギリシア語プロスクネオーには「相手の足下にひれ伏す」すなわち「畏敬の念をもって拝む」という意味があるから死を克服した神聖なるイエスへの畏敬の態度と取れないこともない。しかし、そもそも婦人たちに挨拶した者は復活のイエスであったのだろうか。
 実は、十節の復活のイエスの言葉とされる「恐れることはない」は、二八章の初めに墓が空になっているシーンで天使が語ったそっくりそのままの言葉なのだ(五節)。天使は、墓の番兵も婦人らも思わず畏怖する威厳があり、恐れおののく彼女らに、「恐れることはない」とイエスとまったく同じ言葉で語りかけ、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(七節)と伝言する。
 天使の言うとおりであれば、彼女らが復活のイエスに会うことができるのは、墓のあるエルサレムではなくガリラヤという湖のある地方でなくてはならない。そこはエルサレムの北方およそ百キロの距離にある。天使が伝えたこととは矛盾して復活のイエスエルサレムで彼女らに会ってしまったのであろうか。実に不思議なのだが、この天使の言葉と復活のイエスの言葉とされる二重記述(ダブレット)についてはさまざまな説が出現した。それらに一々言及する余裕はないので、今後ほかの福音書との比較でも問題となるであろういくつかの紹介にとどめて次の聖書記述に進む。
 一つは復活のイエスの出現はガリラヤかエルサレムかという問題である。当初から両方の可能性はあった。公式の出現はガリラヤだとしても、埋葬の地エルサレムで先に墓を訪れた女たちに姿を見せるのは自然かもしれないのである。二つ目は天使と復活のイエスが女たちによる単なる二重写しなのかどうかの問題である。あまりにも仰天した女たちに天使が(あるいは墓にいた人間が)彼女らに単に念を押したのをイエスの復活の姿と勘違いした可能性である。三つめは二重記述ではあるが、天使は「弟子(マセィテース)たち」に伝えよ(七節)と言ったのに対して復活のイエスは「兄弟(アデルフォス)たち」と言い換えた(十節)わずかの違いのことだ。ヤコブたちイエスの兄弟を兄弟と言ったのか、イエスにとって弟子たちはすでに彼の真の兄弟であったのか、それを問題とすることはできるし、後の議論に関わってくるかもしれない。

 次は同じくマタイ伝二八章の末尾にある、いわゆる「大宣教命令(Great Commission)」(二八章一九〜二十節)の前にある記述である。なお、しばしば一六節から二十節を大宣教命令とする説があるが間違い。宣教命令そのものは十九節から二十節であるし、イエス自身の言葉すべてとして一歩譲っても十八節からでなければならない。以下の二つの節は、復活のイエスからその命令が発せられる状況の説明なのである。
 

マタイ伝の出現2〔十六節〕さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。〔十七節〕そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

 なんというマタイ伝の率直な記述であろうか。復活のイエスに会いながら、イエスであることを疑う者もいたのである。しかも十一人の弟子というのは裏切りのユダを入れると十二弟子のことであり、刑死前のイエスにもっとも近かった者たちである。見忘れるということがあるであろうか。
 ともかく、すでに見たマタイ伝の予告どおりに復活のイエスガリラヤで弟子たちに会う。このイエスが指示していた山というのは、おそらく弟子たちになじみの山であろうと思うのだが、いまだにどの山なのか有力な見解はない。ここで「山」と訳されている原語の「オロス」は丘や小高いところも指すので、日本語の山というニュアンスではなかろう。そもそも「ガリラヤ」がガリラヤ地方全体を指すのであればともかく、イエスや弟子らのガリラヤはガリラヤ湖畔のことであるからいわゆる「山」はない。
 マタイ伝のガリラヤの山で思い起こすのは「山上の説教(山上の垂訓)」といわれる場面である(マタイ伝 五〜七章参照)。五章一節の山も原語はオロスであるし、状況からみて湖畔であることが明らかだから伝統的にこの山を湖畔の丘(候補地の一つがカペナウムの村に近い丘)としている。しかし、ルカ伝の並行箇所(ルカ伝 六章参照)には山ではなく平らな所で説教したとあるが、その前に山(オロス 十二節)から下りて来たことに変わりはない。
 なお、四福音書は多くの話題が共通しておりまた互いに矛盾も多い。この四福音書間で同一テーマの箇所をふつう並行箇所あるいは並行記事(parallel passage)という。また、並行箇所は四福音書だけの並行関係だけではなく、旧約聖書との並行や同一福音書内での並行もある。四福音書間で同一テーマがあり矛盾があるのはよくないと考えて全体を調整して一つの福音書にするという二世紀シリアの神学者タティアヌスによる『ディアテッサロン』(ギリシア語で「四つから」という意味の本)のような歴史的試みがあったが、教会の主流は四福音書が矛盾を含んだままでも現在のようにそれぞれが同様に読まれる道を選んだ。
 同じ事件を目撃しても報告者が違えば違うのであるから当然であろう。その矛盾する報告から真実を探し求めて行かなければならない。世の多くの出来事は、筋が通っているから正しい、矛盾がないから正しいとは限らないのである。実際の出来事は複雑であるのだから無理に単純化することは時には真実をゆがめることになりかねない。
 それはさておき、話を戻そう。男の弟子たち(十一人の使徒)もまた先に見た女たちと同様にまずひれ伏す。すでに述べたようにこれは単なる通常の挨拶ではない。神聖なるものに対する畏怖の表現でなかったとしても、少なくとも貴人あるいはそれに類する対象への行動である。記事ははっきりと「イエスに会い」とあるから、イエスであることを前提としている。しかしマタイ伝のその直後の記述は興味深い。イエスであることを「疑う者もいた」とある。イギリス現代の新約学者N・T・ライトは、これをマタイ伝の「耳障りなメモ(jarring note)」と称した。
 そもそも復活のイエスなのであるから、誰も何の疑いもなく「イエス」がそこにいなければならないはずであるが、古来から受け継がれ、また我々が日常目にする聖書の記述は必ずしもそのようには受け取れないのである。高い山での(たとえそれほど高くない丘であっても)復活のイエスの顕現を神的顕現と読み取る神学ならば、旧約聖書の記述の「ほのめかし(allusion)」としてモーセとアロンが神とシナイ山で出会う記事を思い起こすであろうが(例えばドイツのカトリック新約学者ルドルフ・シュナッケンブルク)、「ほのめかし」は根拠ではなく、あくまでもレトリックであることを忘れてはならない。
 ついでながら、「疑う者もいた」を「彼らは疑った」すなわち一部の者が疑ったのではなく全員が疑ったとする読み方がある。伝統に反してその読み方を取るのは少数派ではあるがアメリカの新約学者ドナルド・A・ハーグナーの議論は先鋭である。また、ここの議論は有名でP・W・ヴァン・デル・ホルスト(オランダ)、ロバート・H・ガンドリー(アメリカ)、ウルリッヒ・ルツ(ドイツ)などの新約学者が持論を展開している。ギリシア語原文の「ホイ・デ」の訳が話題なのだが、実はギリシア語を学び始めたばかりの者ほど「彼らは疑った」と訳しがちなのである。
 ホルストなどは伝統的な解釈にそって、ここの「ホイ・デ」を「ある者は・・・しかしある者は・・・」の慣用句の前半が省略されたものだと主張する。つまりギリシア語の慣用的成句に慣れたものであれば「しかし、ある者は(一部の者が)」と素直に訳せるというのである。逆に、先に述べた初学者なら、「しかし、彼らは(十一使徒全員が)」と訳すことになる。もちろんハーグナーはギリシア語の達人であり、ホルストの言い分は理解している。その上で、ホルストの結論が余りにもヘレニズム的語法に囚われておりマタイ伝の特徴を無視していると批判し、全員が疑ったと結論づけている。
 いずれにしろ、たとえ二人であろうが三人であろうが疑ったことに変わりはないのである。ガンドリーやルツは、それをマタイ伝に特有の弟子たちに対するイエスの叱責の言葉「信仰の薄い者たち」(マタイ伝六章三十節ほか三か所)の究極と捉えるのがの結論であるが、「百聞は一見に如かず」も時には有効ではなく、人間の認識力というのが信仰の助けを必要とするもろいものであることの証左かもしれない。もっとも、それは彼らの見た者が復活のイエスであればの話であって、我々はそこまで結論を急がなくてもよかろう。

なぜわざわざ四福音書と言うの?(@Marx_hakaseのツイタからのまとめ)

ある原稿段階の本の一節より(著作権取得済み) 

福音書に関する)予備的説明

 新約聖書の初めの四巻を福音書(Gospel)といい、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順であるが、それぞれ正式には「マタイによる福音書」のようにするのが慣わしである。ただ、本書ではそれでは冗長すぎるので古い日本語訳に従って「マタイ伝」とすることにする。これは便利な習慣である。つまり、「マタイが伝えた福音=ふくいん=幸(福)いな訪(音連)れ」の意味であり、マタイが伝えたギリシア語でいうエヴァンゲリオンであり英語のgospel のことである。(なお、以下においてギリシア語はギリシア文字やローマ字翻字はギリシア語を習った読者でなければ意味がないので片仮名書きとするが、聖書ギリシア語の読み方には少なくとも三種ある。エラスムス式、歴史的発音式、慣用式の三種であるが、本書は一般性を重視し慣用式を主に使用する。)
 福音書は四つに決まっているから「四福音書(よんふくいんしょ)」とわざわざ言うのはおかしいとお考えかもしれないが、これにはわけがある。初めの三つの福音書を特別に「共観福音書(Synoptic Gospels)」と呼ぶことがあるからである。共観(きょうかん synoptic)というのは読んで字のごとく「共に観ている」ということで、まるで一緒に見ていたように共通点が多い。しかし最後のヨハネ伝は初めの三つとは趣が違う。従って、ことさらに福音書すべてを指す場合は四福音書(Four Gospels)ということになる。

墓地の置石:ユダヤ人の墓の場合(@Marx_hakaseのツイタからのまとめ)


まあね、ユダヤんの埋葬式に数日前に行ったわけだが、早速、墓標の上に石ころを載せて帰っていく人がいた。どうして? と思うだろ。( 思わなくてもよろしい。そりゃ、諸君の勝手だから。)

ユダヤ人の墓、とくに縦型でなくて寝棺型の墓地は、どの国に行っても石ころが置かれているのを目にするだろう。エルサレムは特にの中の特にな。(写真は余の友人であるエルサレム在住アラブ人の住いの近くから余が撮ったもの。拡大しないと石ころが載ってるのは見えないか。)

人類は大昔から死者を埋葬した所に花を添える習慣があったことはわかっている。イヌでさえ亡くなった主人の墓に何かしらを捧げてくるという話はめずらしくないんだから、人間なら自然にするわな。

ところが、ユダヤ人は基本、墓に花束は置かない。(とは、言うが、実際は花を置いてくユダヤんもいることはいる。)花はしぼむからだ。(イザヤ40:8)

それはわかった。では、どうして石ころなんだ、ということへの明確な答を、余は実は知らない。(なんだよ、知らないくせにツイタしたのか?)しかし、納得できる説明の一つくらいは聞いたことがあるよ。

石ころを積む習慣なら、ユダヤんに限らない。ほら、日本の恐山(青森県)だってどこだって・・・ねっ。私はここにあなたを思って来ましたよ。誰かが訪れる場所だから、荒らさないでね。大事な所の目印よ。とか、とか、・・・。

ユダヤんにとって、石は祭壇。ほら、創世記の28章を読んでご覧。ヤコブは石枕に油を注いでべテル(神の家)としたよ。つまり、ベイト+エルだけど、墓地のことをベイト・オーラム(永遠の住処)って言うんだ。だから、石ころを積むんだね。迷信? まあまあ、そう言っちゃ何もかもお終いよ。

偽ヨーロッパ、実はロスアンジェルスにいくつかある嘘っこの町

所要があって行った町(Glendale市)の偽の通り。偽電車が走っていたのでパチリ。それにしても「はてな」の写真はだめだな。んっ、余の写真がボケているのだと? まあ、そうかもしれん。

ところでアメリカ人というのは土台が(アメリカ原住のネイティヴ・インディアンを除けば)英国人や欧州人であるから欧州に対する憧れが強い。行きたいし帰りたいがせめて欧州風の町に新しい背広でも着て行ってみようかとなるのだろうか。だから、そこが商売の町になる。てか、そのつもりで偽の町をつくるわけだ。

魔術師(Kishefmakher כּישעף-מאַכער)後編

      I.L. Peretz(I.L. ペレツ)作    及部泉也 訳 @2013 Izumiya Oibe 禁無断転載
 前編と中編から先にお読みください。

 「あなたにも良き過ぎ越しの祭を!」ととりあえず二人は返した。暗闇に訪問客を放り出したままにもできないからである。
 「今晩の晩餐の客として迎えてください」と、その訪問者は言った。
 「いや、我が家には晩餐の用意がないんです」とハイム・ヨナは返事した。
 「確かにそのようですね。だから私があなた方のために準備してきましたよ!」と客が言った。
 「暗い中での食事ですか?」と聞いたリヴケ・ベイレの声はそぞろに震えていた。
 「何をおっしゃる! さあ、明かりをともしましょう、アブラカダブラ!」とその客が答えると、たちどころに空中から銀の燭台に灯った2本のロウソクが飛び出して部屋を明るくした。明るくなって、やっと客が魔術師だとわかったハイム・ヨナとリヴケ・ベイレは、まん丸に見開いた目で彼を見つめるのだが驚愕と恐怖で言葉が出てこなかった。口もぽかんと開けたまま、二人は互いに手を取り合って、というよりもすがり合ってそこに立ち尽くすばかりであった。その間に魔術師は、部屋の片隅で恥じ入ったように立ったままの何も上に置かれていない古いテーブルに向かった。「さあ、年寄りのテーブルじいさん、テーブルクロスを着てここへお出でなさいな!」とテーブルに命令した。すると、言うが早いか、たちまち天井から真っ白なテーブルクロスが古いテーブルの上に降ってきて、勝手に動き出すと部屋の中央で宙ぶらりんの燭台の下まで来た。燭台はというと、なんと自然にテーブルのところまで降りてきた。「よし、今度は何か座るものを用意しなさい!」と言うと、部屋の三隅から一脚ずつのイスが動き出してテーブルの三隅にぴたりと止まった。「君たち、もっと大きなイスになりたまえ!」と言うと、今度はイスのそれぞれに左右のひじ置きが出てきた。「もっと柔らかに!」と言うと、たちまち白いクッションが付いた赤いヴェルヴェット張りの豪華なイスに変わった。さあ、みんなが気持ちよく座れるぞ!
 魔術師がもう一度唱えると、マッツォパンの皿と赤ワインのビンと三つのカップに加えて過ぎ越しの祭の晩餐に必要なあらゆるものがテーブルに並び、どこかの王様のためのような多数の料理が続いて、最後に金の縁取りの過ぎ越しの祭の祈祷書が出てきた。
 更に魔術師は、「食事の前に手を洗う水はいかがかな?」と自問して「どうやらそれもまた呼び出さなければならないようだ!」と言った。
 その頃になって二人はやっと気を取り直した。「あんた、これ全部に私たちがあずかっていいのかしら?」とリヴケ・ベイレはハイム・ヨナの耳元にささやいた。そしてハイム・ヨナがどう答えていいか考えあぐねているのを見て、彼女は「だんな様、ラビ様のところに行って聞いてきておくれ!」と言った。
 「いや、ラビ様のところに行くのは君だよ。だって、ここに君を魔術師と二人にしておくわけにはいかないからね」とハイム・ヨナが言った。
 「いいえ、あなたよ。だって、こんなことをラビ様が私のような馬鹿な老婆から聞いたら、とうとう頭がおかしくなったとしか思わないでしょう」とリヴケ・ベイレは反論した。それで結局二人は、過ぎ越しの祭のご馳走とともに魔術師を家に残して、一緒に出かけることにした。
 ラビは二人の話をすっかり聞き終わると言った。「もしそれが黒魔術ならテーブルの上の物はすべて本物ではないだろう。そんな魔術は幻覚にすぎないからね。だから家に帰ってよく見てごらん。マッツォパンが実際に砕くことのできるもので、ワインは注ぐことができるもので、クッションなども丈夫なものなら、すべては天からの贈り物と思っていいし、もちろん存分に楽しめばいいさ。」
 期待と不安で二人の心臓はのどにつかえるほどであったが、ともかく家に帰ることにした。家に帰ると魔術師の姿は消えていた。しかし、テーブルは二人が家を出るときのままにすっかり残されていた。二人はクッションをこわごわ触ってみて、ワインをカップに注ぎ、マッツォパンを砕いた。
 そうして初めて二人は、あの客が魔術師などではなく、預言者エリアであったことを悟った。二人はまことに素晴らしい過ぎ越しの祭の晩餐を共にしたことになる。(完) 

(1904年作品)数種の翻案、ことに子供向けの翻案が出版されているが、この翻訳は原作からのものである。