Comments by Dr Marks

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コメントにならないコメント−16 (時には聖書学者風に、うふ)

Finalevent さんが、とてもよいドヴァイスをしていた旧約聖書の成り立ちに興味をもたれた方(Kousyoublog)に、日本語WPだけでなく、もっと本も読むといいよ、というものだ。同感である。そこで浮かんだ印象をいくつか。

Kousyoublogに紹介された日本語WPを二、三見てみた。間違いではないが舌足らずの表現で誤解されそうな記事が多い。(以下、印象だから詳しい説明は省く。)例えば、創世記(モーセ五書の一)が捕囚期にできたとか、一神教がそこで成立したとか書いてあるが、大成した時期であり、始原ははるか昔に遡るのである。その辺りの説明がない。

Finalevent さんは学生時代にノート(Martin Noth)の本を読んだらしい。原著は半世紀以上前のものだが、今でも各国語に訳されている基本図書の一つだ。しかし、同世代のラート(Gerhard von Rad)も日本語に訳されているので図書館で読めると思う。ノートとかラートとか紛らわしい名前だが、同時代の両雄だ。ラートもお忘れなく。

ところで、この両名はグンケル(Hermann Gunkel)の影響下にあったが、そういえば私のお気に入りディベリウス(Martin Dibelius)もグンケルにだいぶ世話になったはずだ。ディベリウスというと新約学者と思われている。当時、ブルトマンとともに新約神学の両雄だったから、新約学者で構わない。しかし、彼の学位論文は旧約学である。(必要があって、私はこの学位論文の全文コピーを入手したことがある。)ブルトマンだけでなく、ディベリウスもお忘れなく。

以上の学者たちの雰囲気は、歴史的発見に基づく科学的方法の援用であろう。天才的な大胆な推論で一世を風靡した人たちだ。残念ながら、その後はこのような「大物」が少ないように思える。しかし、斯学がこれら大物の仕事で(つまり、半世紀前で)止まっていると思うのは大間違いである。新しい発見も多く、これら大物には欠けていた精密な検証は日々進行している。

むしろ、大物時代の大胆すぎる仮説に、その後の学者たちが興味を失ったと見ることもできる。ボーカム(Richard Bauckham)の謦咳に接したことがある。前から二番目の彼の正面の席に座っていた。すると私の目の前、すなわち一番前の学生が、小さな声で、「先生はなぜ聖書神学のほうに進まれなかったのですか」と聞いた。先生は、先生の言葉でその質問を繰り返して、答えた「あのイージーでいい加減な学風が嫌だったんだ、こちら(聖書文献学)のほうが納得がいく」と。

確かに、少ない情報から推理を重ねて何かを発見することもいいだろう。しかし、その少ない情報を地道に拾い歩く働きのほうも大切だ。それがなかったら、大物さんが働く場さえできまい。そうだ、メッツガー(Bruce M. Metzger)は地道に拾い歩いた先生だったのに、その弟子のアーマンとも言われるイーアマン(Bart D. Ehrman)は、どういうわけか大物になりたいらしい。

というか、一般教養で教える者の運命なのか、 Borg や Crossan もそうだが、精密な検証と議論が日常になく、一般大衆(学部学生)へのわかりやすい説明を心掛けているうちにメディアに登場し、擬似大物化するのであろう。しかし、ノートやラートのような大物とはわけが違う。(クロッサンはときどき面白いけど、うふ。)