Comments by Dr Marks

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No. 1.

コメントにならないコメント−17 (ヴァメーシュの『イエスの復活 The Resurrection』序文とルイ・ジュヴェの納得)

まあ、またしても判じ物のタイトルだね。コメントにならないコメントだからいいじゃないか。いや、これでも、何だかんだ言ってもだね。真面目にヴァメーシュの新刊 The Resurrection 序文の紹介くらいするつもりなのだよ。じゃ、いきなり出てきたルイ・ジュヴェたあ、何者かね。前に悪人の甘ったれ面(Antonian様説=コメント欄参照)を見せたから、うん、悪人ほど甘ったれなんだが、今回はジュヴェの渋い顔をみせてやらあ。

先日、東大に3回入った奇特な人の話題を書いたが、このくらいの顔になるにはコンセルヴァトワールに3回くらい落ちた演劇人でなければならないよ。(実際、3回落ちて入学はあきらめたが、後にコンセルヴァトワールの教授になった。どうでい。)



Louis Jouvet (1887-1951)

ジュヴェ先生、「演劇はどこへ行くか」という題で話さなくてはならなくなった。画家ルノワールの息子で俳優仲間のピエールに、自信がないのか「どうすればいい」と相談した。いい加減なピエールは「50年経てばわかるさ」と言っとけなどとほざいて取り合わない。冗談のわからない真面目なジュヴェ先生は「いや、今知りたいらしいんだ」と泣きつく。本当は聡明で真面目なピエール応えて曰く、「どこへ行くかなど、誰にもわかるもんか。だが、どこから来たか、それなら言えるかもしれない」と。死後の復活も審判もそうかもしれん。

ヴァメーシュの新刊や彼の近影は前の記事を見て欲しい。彼はもともとはローマ・カトリックの司祭であったが辞任し、後に彼の英文著作のよき編集者となった英国女性と結婚した。本来、ユダヤの家系(両親はハンガリーナチスに殺された)であったことから、初期の作品はキリスト教へのユダヤ教の影響であったが、近年、『イエスの受難(The Passion)』(2005)、『イエスの誕生(The Nativity)』(2006)、『イエスの復活(The Resurrection)』(2008)と、小冊子で一般向けではあるが、精力的に書いている。現在、84歳にして、矍鑠(かくしゃく)としている(らしい←ごめん、見てきたわけじゃない)。

通常、史的イエスを論じたり研究するのは、イエス・キリストが地上の生涯で関係したことに限られるとの解釈であった。具体的に言えば、イエスの公生涯の初め(伝道の初め)から受難(刑死)までが研究の対象だった。しかるに、ここ十年くらいは、彼の誕生に関わる伝承や復活の伝承までをも研究の範囲とするようになった。

実際のところ、地上の生涯に関わることに限定したとしても、なぜ、いつ、誰によって処刑されたのか、あるいは、ユダヤ人側の問題かローマ人側の問題かなどの話は、彼の誕生と復活の全体像の中で考察されなければ意味を失うのかもしれない。もっとも、ヴァメーシュがからかったように、今なお、イエス・キリストなどは歴史上に存在しなかったのだと「わめき散らしている」合理主義的「教条主義者」にとってはどちらでもいいことだろう

しかし、誕生に関わる話や復活に関わる話は、事実関係の証拠提示というような学問上の手続きのことを考えると、それまでの史的イエス研究者が己を律して、研究対象からはずしてきたことも妥当に思える。とくに、復活に至ると、信と不信の両極端な反応だけが表立ち、学問の入り込む余地はなさそうにも思える。

ヴァメーシュは、このような状況は十分にわきまえた上で、後の教会の教義とは別の、原初的な福音書記者やパウロのメッセージを、歴史、考古学、ユダヤ学等々の知見を利用して、西暦30年4月7日金曜日からの出来事について、もつれた糸をほぐすように彼自身の所見を述べることになる。

(注:西暦30年4月7日という日付については諸説あり、詳しくはJohn P. Meier の A Marginal Jew 第1巻がわかりやすいだろう。Jack Finegan の Handbook of Biblical Chronology は更に詳しい。なお、この本は1998年に改訂版が出ているので注意のこと。個人的な好みだが、ヴァメーシュはユダヤ人なのに、西暦をA.D. と書いてくれるのがいい。ユダヤ学者に媚びて、ユダヤ人でもないのにC.E. などと表記する馬鹿は好かん。日本の文部科学省は真似をしないように。)

序文の最後に、この話。ある高名な国教会の人が、「近頃は何に没頭なさっていますか(What are you busying yourself with?)」とヴァメーシュに聞いた。「The Passion The Nativity を書きましたから、今度は The Resurrection を書いています」と答えたヴァメーシュに、この高名な人は、賢くも、「ということは、物語としては終わりということですな、もっとも最後の審判(the judgment)を別にすればの話ですが」と語った。

もちろん、これこそ Final Event ではあるが、皮肉屋の高名な国教会の人は、著作に対する評価のことも含意しているわけだ。さて、この高名な国教会の人とは誰だろうか。99パーセントの確率で、私は 、愛称トムじいさん、すなわち N.T. Wright 博士だったと思っている。

トムじいさんも史的イエス3部作の最後にThe Resurrection of the Son of God (2003) を書いている。私も参考にした本で、冗長なのが玉に瑕だが、良書だ。ヴァメーシュも参考図書に上げている。私の本は参考図書に入っていない←当たり前だ。しかし、ヴァメーシュの学会誌RBLでの書評者は私の本の書評者と同じだった。(なお、私自身が読み終わるまでは、ヴァメーシュの本書の書評そのものはとりあえず読まないことにしている。予断が入らないようにする昔からの習慣だ。)