Comments by Dr Marks

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No. 2.

コメントにならないコメント−18 (ヴァメーシュの『イエスの復活』プロローグ)

すごいなあ、連日、複数本の記事を書いている。そうか、夏休みか。いやいや、躁鬱の躁期かな。So?
前の記事でイエスが歴史上も存在しなかったとわめいている合理主義的教条主義者とは誰かとのご質問あり。そりゃ、一杯いますが、そこまで言うのはやはり変人です。まあ、Robert M. Price and Jeffery Jay Lowder, The Empty Tomb: Jesus beyond the Grave (Amherst,NY: Prometheus Books, 2005) でも見てつかあさい。書名の出だしが私の本と同じだから間違えられることがある。

The Resurrection とあるだけなのになぜ『イエスの復活』と訳しているのか。確かにそうだ。不思議に思うかもしれない。しかし、定冠詞がついていることと、受難という本と生誕という本の続きなら、この本に「イエスの」を付けて構わない。いや、むしろこの復活は「イエスの」場合がテーマであるから、日本語にするなら「イエスの」を付けるべきでもある。他に「空の墓」も定冠詞を付けて The Empty Tomb と言われたら「イエスの」空の墓を指すのである。

こういった何気ないことでも、英語における神学の環境においては、皆が暗黙のうちに了解していることであり、単なる英語学がわかるからわかるということではない。定冠詞にいくらか詳しければ、何かあるぞと多少は注意はするかもしれないが、コンテクストがわからなければわからないことはわからない。エチオピアの女王カンダケの高官がイザヤ書を読んでいて、「手引きしてくれる人がなければわからない」と素直に言ったことから理解が始まったように、先人の手引きをゆめおろそかにしてはいけない。

ヴァメーシュは、プロローグにおいて、簡単にキリスト教徒の復活の概念と歴史的に先行する復活の概念について記述している。キリスト教徒の復活の概念など、たとえイエスの死者からのよみがえりを目の当たりに自分自身で体験したとしても、つまり自分自身がしっかりと目撃したとしても、自然と了解できるわけではない。せいぜい驚いて腰を抜かすくらいで、その意味などわかるはずもない。下手をすれば、「イエスの幽霊だぁ〜」と叫んで、復活の喜びどころか恐怖のどん底におちいるのが関の山であろう。

その意味では、エルサレムでの復活を体験しなかったパウロが、ダマスコ途上の道中で復活のイエスを自分だけ知ったとしても、むしろ不思議はない。空の墓など見なくてもわかるのだ。死者の復活を固く信じるパリサイ派ユダヤの信仰を持つパウロには、むしろイエスの復活を信じる素地が、十分に備わっていたのである。

何をちょこざいな。死んだ者が生き返るのであれば、パウロ先生に聞かなくっても知ってるわい。そんな話はどこにでもある。そうだ、どこにでもある。しかし、ユダヤの信仰における二つの特徴には目を留めておく必要があるだろう。ユダヤの信仰あるいは旧約聖書に現れる死者の復活に関しては、その起源をめぐって複雑多様なな議論がある。しかし、このプロローグでは、それらの詳細については触れない。ただ、二つの特質を述べるに留まる。

一つは肉体の復活である。東洋的なあるいはギリシアプラトン的な永遠不滅の魂の問題ではない。エゼキエルの預言のように、死んで枯れ骨となった屍が、再び命に溢れた肉体を持ってよみがえるのである。後に議論することになるであろうが、現代のキリスト教徒の一部が、復活を「魂のよみがえり」と矮小化して理解しているなら、永遠不滅の魂思想と何ら変わることがない。むしろ、魂は、よみがえった肉体に与えられる新たな命の息吹として、風のように神によって吹き入れられるのである。行き所のない幽体などではないわいな。

二つ目は、ユダヤの信仰においては、復活は世の終わりの出来事である。すなわち Final Event(←しつこいかな)だ。世の終わりのラッパ鳴り渡るとき♪〜だ〜(しつこい!)。そのときはまず義人がよみがえる。最後の審判が各人に下される。神の目にかなう者は生き返り、逆に悪人は永遠の苦界地獄に閉じ込められ、二度と神とあいまみえることはない。

そして、この復活のとき、すなわち終わりの日は、ユダヤの人々にとって、いまだ来たらざる未来のことであり、待ちに待った裁きのときでもあった。裁きは誰が待つのか? 自分の正当性に自信のある者である。あの紀元前2世紀のマカビの乱(あるいはマカバイ戦争)において、七人の息子たちが惨殺されるとき、母親は「世界の造り主は、憐れみをもって、霊と命を再びお前たちに与えてくださる」と励ました

その意味では、復活のとき、裁きのときは、イスラエル民族全体の希望のときでもあった。そして、イエスの時代もローマの治世下にあって、そのときは来ない。その後も、ユダヤの信仰の者たちにとって、2000年の間世界を放浪していても来なかった。悪魔なるヒトラーに苦しめられていたときも来なかった。現在のユダヤ教徒にとっても、そのときはまだ到来しないのだ、今もなお

しかるに、西暦30年4月9日、日曜日の朝早く、歴史上にこのことが実現してしまった、と考えた一群があった。ただ一人、神の子なるイエス・キリストが、4月7日の午後処刑され、死に、その日のうちに墓に納められ、その日を含めて数えて三日目の日曜日の朝に、いったん黄泉に下られた後、勝利の命とともによみがえられたのだ。こう信じた者たちが、後にキリスト教徒と呼ばれる一団である。

今日は、ヴァメーシュの書き方に似せて、一切の文献引用や、聖書等からの引用を注記せずに書いてみた。内容は、ヴァメーシュの『イエスの復活』のプロローグに沿ったものである。要約でもあり、私のパラフレーズでもある、冗談も含めて。