Comments by Dr Marks

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No. 3.

コメントにならないコメント−19 (ヴァメーシュの『イエスの復活』「聖書における人間の運命鳥瞰図:失われた不死性から復活へ」)

何だ何だ何だ、こんなに長く書いたって誰も読まないんじゃないの? この調子でヴァメーシュの新刊の解説をしていたら翻訳する以上の手間が掛かるんじゃないか。マルクス博士さん、後のことは、おら知らねえよ。ふん、どうせ飽きたり忙しくなったら止めるって、心配しなさんな。それより、只で中身がわかるのがいいや。でも、ずいぶんとマルクス博士のバイアスがあるぜ。構うもんか。そのまんまだったら著作権問題だが、これなら構わない。著作権マルクス博士にあり。

へっ、復活なんざ、次善の賜物さ。最高のもんじゃねい。二番手さ。キリスト教徒が、死からの逆戻りだ、イエス様が獲得してくださった人類への御慈悲の極致だ、と言ったって、不老不死にはかなわない。生き返ったときに老人なら老人で生まれ変わるのか、メクラはメクラで生まれ変わるのか。鼻っから死なねいほうが、よっぽど気が利いてらい。

復活の姿がどんなものであるかはわからない。わからないことを詮索しても始まらない。しかし、たとえ、次善の賜物であろうが、不老不死の楽園を出されてしまった身には、せめて「復活」が希望であることに変わりはない。ユダヤキリスト教だけではない。古代の諸々の宗教も人間が元々は不老不死であったのに、神々が人間への嫉妬ないしは単なる気まぐれから、人間の命に限りを与えたことは知られている。その限りある命に、再生の希望が与えられたのだ。

旧約聖書の創世記には、神が勝手に最初の人間を土(アダマー)から造ってアダム(人)と名づけたとある。神はアダムの体から、今度はイヴ(エバ=命)を造ってくれた。二人はエデンの園において、必要なものはすべて与えられ、幸福な生活を送っていたらしい。しかし、善悪の知識の木からだけは取って食べることを禁じられていた。二人はその言いつけを守っていた。

ところが蛇が来て、まずイヴをそそのかし、この禁断の木の実を食べさせた。どうしてイヴが? 女は誘惑に負けたのだ。そう書いてあるから言ったまでで、私が「女は誘惑に弱い」と言っているわけではない。男も食べた。どうして? 女がそそのかしたから。じゃ、男も誘惑に弱い。うんにゃ、そうは書いていない。「家庭内平和のため」だ。(←嘘、そんなことは書いていない、要するに理由はとくに書いていない。)

罰じゃ、罰じゃ〜! お前は女のいいなりになって、わしの言いつけにそむいた。この園から出て行けー。額に汗して働いて働いて、終いにはおっちぬのじゃー。土から造られたお前は、その土を耕して、寿命が尽きたら死んで再び土に返れ〜!!

エデンの園の中央には、善悪を知る木のほかに命の木があった。意地悪な神さんは、この命の木を守って、男と女が二度と園に戻れないように、ケルビム(SF世界の番犬のようなもの)と燃える剣を置いた。(根性悪いなー、神様は。)しかし、少しは可愛そうに思ったのか、裸ん坊の二人にエデン・ブランドの本革レザージャケットを作って着せてあげた。(古着屋さんで Made in Paradise という革ジャンを見つけたら、ご一報ください。高価買取保障。2着揃いでなくても結構です。)

ともかく、死を避けられない運命になっちゃったんだよ。ここでクイズ。蛇野郎すなわち悪魔とイヴとアダムのうち誰が一番罪深いか? 悪魔? ブッブー。イェッシュア・ベンシラーなんていう紀元前2世紀にエルサレムアレクサンドリアで活躍したユダヤの学者さんなんか、イヴが一番悪いんだって。なぜって、一番先に食ったから。そこのお母さん、お父さんに先に上げるのよ、初物は。

とんでもない学者もいたもんだ。女のせいにしちゃお終いよ。その少し後で、旧約聖書続編の「(ソロモンの)知恵の書」の著者は、やーっぱす、悪魔だべ、と言っている。その点、パウロ先生はフェミニストだな。何がなんでも一家の長たるアダムが責められるべきじゃ、と断言するのだから。最初のアダムの愚かな行為が人間を罪の中に閉じ込め死ぬべき運命に定めた。しかし、最後のアダムであるイエス・キリストは、自らの復活によって、死からの救いをもたらすことになった、とパウロ先生のたまわく。

死んだ者は土になる。しかし、土にならない文化ではどうなのか。黄泉の世界、冥界、すなわち地下世界に行くことは多くの文化で共通している。メソポタミアギルガメッシュを持ち出さなくても、日本人なら黄泉比良坂(よもつひらさか)を下ってイザナギイザナミを探しにゆく古事記の話はわかるだろう。共通しているのは、一度下った者はイザナギのような特別のケースでない限り一方通行、すなわち二度と戻れない。実は、聖書においても土に帰るという表現に呼応して地下世界を彷彿(ほうふつ)とさせる記述は存在する。そして、同様に、一方通行なのである。

そうそう、ユダヤキリスト教の伝統では、ペテロ爺さんが、キリストが地下で死者に述べ伝えているとほのめかしたり、旧約聖書偽典の「第一エノク書」で、ノアの洪水以前の族長エノクさんが地獄に行ってきたりするほかは、原則的に死者の世界(シェオールまたはハデス、他にゲヘンナとも)については多弁ではない。ギルガメッシュ閻魔大王のような神格化された死神、冥界の王ならびに女王などとしての、メソポタミヤのナーガル、タムーズ、エレシュキガル、あるいはギリシアのハデスやペルセフォネー、またローマのプルトンやプロサーピナのようなものは登場しない。(ハデスは冥界そのものを指すと同時に冥界の王をも指す。またペルセフォネーとプロサービナが同一なのは、アフロディテとヴィーナスが同一であることと同じ。)

では、何ゆえイスラエルの民は、他の民族と比較して言えばだが、死後の世界にそれほど淡白であったのか。よくはわからないと言っておこう。造り主である神は生き物を息あるものとして生かし、地上において幸せな生活を送らせる。終わりの時(死すべき時)には、懐かしい父母のいる先祖の墓に葬られる。これが理想の生涯として、旧約聖書にはたびたび述べられている。それはそれでよかったのであろう。

つまり、大往生を遂げ、アブラハムの懐に住まう(ヘブル語常套句で、ベヒッコ・シェル・アブラハム)限り良しとしたのだが、紀元前587年、バビロン捕囚は、預言者エゼキエルをして、不遇の死の枯れ骨の復活を希望の幻とする。詩篇においても、冥界に安住する馬鹿者は別として、草葉の陰からでも執拗に己の義を神に訴え、神に信頼する信仰告白がなされた。

イスラエルの民のこの新しい道は二手に分かれる。いや正確に言うと、バビロン捕囚は紀元前539年に終わるのだが、その直後ではなく、紀元前3世紀頃から二手に分かれることになった。一つはヘブル語聖書の道で、これは捕囚後すぐに現れたものだが、二つ目のギリシア語文書の道は、紀元前3世紀以降だと思ってほしい。

前者のヘブル語聖書においては、イザヤ書においても個々の義人の復活がエゼキエル的肉体の復活として予言されるのだが、ダニエル書では大地の塵と化している死人がすべて目を覚まされ、ある者は永遠の命を、ある者は永遠の恥辱と屈辱にさいなまれることになる。最後の審判である。Final Event!!!

後者のギリシア語文献、例えば旧約聖書続編「(ソロモンの)知恵の書」では、不思議なことに肉体の復活の概念が後退する。パレスチナに住むユダヤ人の常識と、ヘレニズムに染まったユダヤ人の常識が異なってきたのである。「朽ちるべき体は魂の重荷」、肉体は滅び、よき魂は残る。黄泉に閉じ込められるものも、肉体ではなく悪しき魂だ。

もっとも、イエスの時代でさえ、古典的に、この世でのよき生涯が神に祝福された人生だとして、復活を信じないサドカイ派はいた。ユダヤの信仰における、失われた不死性から復活の希望までの鳥瞰図はこのようなものではあるが、以下に更に個々の流れを見つめ直すことになる。