Comments by Dr Marks

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No. 11.

コメントにならないコメント−26 (ヴァメーシュの『イエスの復活』「イエス時代の来世に対するユダヤ人の心構え」後編)

寝る前に Final Event さんのブログに行ったら、一瞬、世界の終わりが来たのかと思った。俺たちならもういいかもしれないが、これから生まれる子や今子供でいる人たちに見て欲しいものがあるのにもうお終いでは困る。美しいものを見て欲しいが、醜いものを見るなとは言わない。美しくても醜くても現実は現実だ。世の終わりが来る前に、心安らかに何でもしっかり見て欲しいと、草葉の陰から応援しているFinal Event さんを、私も応援したい。

昨日は忙しかった。今日も忙しいが朝のうちに書いて後で上げることにする。ほとほと俺って勤勉だなと思う。朝から自画自賛で始まる一日は、何かいいことがある気がする。

そうそう、今朝、新しく日本人イエズス会士のブログを知った。片柳さんというまだまだ初々しい助祭様だ。だけど、「柳」が付くのね。白柳という枢機卿がいるけど、片柳さんは法王になってくれ猫猫先生の言うように、名誉とは世俗の名誉に限る。ヴァメーシュみたいに結婚なんかするなよ。(まっ、それもいいけど。)あっ、朝から人を励ましてるぞ。この調子、この調子。


上にHashem is God とある。Hashem とは、英語なら the name ということ。御名(みな、聖名)という意味だ。ヘブル語聖書では、「御名=ハシェム」に当たるところは「ヤハウェ」となっている。ところが、「ヤハウェ」はみだりに口に出してはいけないので、普通、「ヤハウェ」が出てくるたびに「ハシェム」と読み替えるのが習慣だ。また、「ハシェム」ではなくて、「アドナイ」で置き換えることもある。「アドナイ」は「主(しゅ)」すなわちご主人様という意味。この動画では、アドナイをヤハウェの代わりに使っている。従って、アドナイのところをハシェムで歌ってもいいわけで、私が歌うときはハシェムを使っている。キリスト教徒なのに(というかキリスト教徒も歌ってしかるべきなのだが)私が歌うと、たいして信心深くもないユダヤ人のじい様でもばあ様でも喜んでくれる。涙を流して(←まだ泣いてくれた人はいない、もっとうまくなるというか、この動画のように鬼気迫る歌い方でないとね)。
本論に入る。以上見たように、少なくともクムラン教団(そんな教団はないのだが、便宜上こう言う)の中にも来世の期待感や復活思想は(形は何であれ)存在した。しかし、それが果たしてエッセネ派であったかどうかの確証はない。

そのように見てくると、明確な「肉体を伴う復活」を意識的に表明していたのは、今のところパリサイ派だけに見られる特徴ということになる。パリサイ派らしき者が復活を論じた文献は死海文書にはない。そこでヴァメーシュは再び、あの爬虫類野郎ヨセフスに目を転じる。

ヴァメーシュによると、ヨセフスは『ユダヤ戦記』、『ユダヤ古代史』、『反アピオン論』において、しばしばパリサイ派の復活観を述べているが、議論は一様ではないらしい。例えば、彼の魂の生き返りには復活というより、輪廻転生と理解したほうがよい説明もあるという。しかし、ヴァメーシュはヨセフスのこの理解の引用箇所を示していないので私は判断できない。(場所くらい書いておいてくれよな、とにかくヨセフスの著作は膨大なんだから。)また、パリサイ派一般の理解とも違うとヴァメーシュは書いているが、何がパリサイ派の中心かなどは元々はっきりしないのだから、こんな言い方はおかしい。ヴァメーシュじいさん、耄碌かな。

他に、ヨセフスの特徴としては、義人すなわち神の目に正しい人だけが復活にあずかり、悪人は永遠の責め苦、要するに地獄だな、そこに行くと主張している(これは引用箇所あり『ユダヤ戦記』2:163)。注意して欲しいのは、パウロによれば、いったん義人も悪人も生き返ってから裁きにあうが(使徒行伝24:15)、ヨセフスによると、悪人は地獄に直行だ〜

古代のラビのグループによるミシュナーで、おそらく紀元100年頃までには固まったユダヤ思想の2本の柱は、復活と律法であった(mSanh 10:1)。ただ単にフィラー(ヘブル語で「祈り」の複数形)といわれる祭司がシェマー(聞けイスラエル申命記6:4)の後でする祝福の祈り(バビロニア版とパレスチナ版あり)では死者の復活のために祈るし、この頃(二世紀すなわち紀元100年を過ぎた後)までには、パレスチナパリサイ派は「肉体」の復活を信仰に欠かせないものとしている。しかし、遡ること2−3世代前のイエスの時代はどうであったろうか。

一口にグレコローマンギリシア・ローマ)時代の人々の意識といっても、それぞれの階層によって異なるのは当然だが、今まで話題となった宗教グループサドカイ派エッセネ派パリサイ派なるものはどの程度の影響力があったのであろうか。まず、人口比から見ていこう。

第二神殿時代の司祭団すなわち大祭司階級からレビ人階級(基本的には大祭司もレビの子孫でありアロンの子孫だからレビ族なのだが、ここでは司祭以外の神殿奉仕者の意味)の数は聖書中(ネヘミア記)にもあるが、ヴァメーシュはここでもあのヨセフスの記述などから算出する。いいのかな、ヨセフスなんか信用して。ともかく途中の計算を省略すると約2万人となる。もちろん成人男性の数だ。

当時のパレスチナの人口だが、いつも本家ブログで私が言っていたように、学者の計算方法はいろいろだからいい加減だ。ヴァメーシュは50万人から100万人の下のほうをとって60万人くらいとした。ずいぶんと祭司階級が多いと思うだろうが、現在のユダヤ人だって祭司階級と自称するのは多いんだよ。(Dr. Marks は16分の1のユダヤ人だが、その血脈は祭司階級で、それより多い日本人の血でも身内は國学院で学んでいたから祭司階級なんちゃって。)

次に、エッセネ派が4千人、パリサイ派は6千人。しかし、パリサイ派は祭司階級に属している者も多いから、数としては祭司階級とも重なることになる。残りは何か。大部分は江戸時代の日本と同じですよ。ヘブル語でアム・ハアレツという大地の人、すなわち農業等に従事する庶民だ。

さあ、ここでヴァメーシュじいさん、少し強引なのだが、当時のパレスチナにあってオピニオン・リーダーだったのは、他でもない、この6千人のパリサイ派だという。ある程度そうであったことは私も同意しよう。祭司とは違って街中で活動した宗教団体だから影響力はある。また、エッセネ派のように隠棲して俗世と手を切ったわけでもなかった。極めて活動的な集団だった。

彼らは肉体を伴う復活を主張する急先鋒というか、そのような復活観を持っていることが明らかである唯一の団体だったが、当時だけはやった「再葬」と「骨壷」は彼らの復活観によるという説は俗説だからね。ヴァメーシュもそう書いている。ありゃーね、手狭の墓場を団地式に整理しただけさ。第一、オピニオン・リーダーではあるが、それは都市部のインテリ階級の間での話だ。

パリサイ派は都会っ子(townsfolk)のそれなりに裕福な(moderately well-to-do)職人(artisan)階級が母体だ。大部分のパレスチナユダヤ人は、祭司の主導する年間の祭事に参加する程度で、パリサイ派の小難しい話など聞いちゃいない。イエスが大工(artisan)だから、また当時のガリラヤの都会セフォリスという町に出入りしていたなどと想像して、彼もパリサイ派的知識人などと言いだす者もいるかもしれないが、当時のガリラヤにはパリサイ派などほとんどいなかった。パリサイ派フリー(Pharisee-free)のガリラヤだよ。

もっとも紀元70年のエルサレム落城で神殿がなくなると、もともとビッグマウスの(ほらね、パウロ先生もおしゃべりで大法螺吹きでしょう)のパリサイ派は実質上も祭司階級を差し置いて、全イスラエルパレスチナ人およびディアスポラ)の宗教的指導者となったことは見てのとおりだ。現在のラビはすべてパリサイ派の流れである。ただし、前述したとおり、一部の祭司階級とパリサイ派は重なる。

で、ヴァメーシュじい様、どうなんです。パリサイ派の影響のほどは? ふんふん、あまりはっきりしないだって。だから、墓場にでも行ってみようかと思ったって? じいさん死ぬのはまだ早いよ。何々、「馬鹿を言うな、考古学と墓碑銘にまかせる」ですか。そうか、骨壷とか墓場に何が書いてあるかだな。確かにいいアイディアだが、ほら、やはり死海文書の編集で有名なピュエーシュ(Emile Puech)先生とかヴァンデア・ホースト(P.W. van der Horst)先生は、「そらあきませんわ」と言っていますよ。

ヴァメーシュじいさん、顔を真っ赤にして、「何、ピュエーシュの若造が…」と言ったって、イエズス会士のピュエーシュ神父様だって間もなく70歳ですよ、そりゃヴァメーシュ先生よりは若いですが。「若造は、何を見てるんだ何を、メノラーユダヤの七枝の燭台)を見よ〜」と叫ぶ、じいさん。

確かに、メノラーという図柄が、墓、骨壷、そしてカタコンベ(地下墓地にして集会所)には一番多い。他には、オレンジ、しゅろの枝、律法の巻物などだ。グッドイナッフ(E. R. Goodenough)という先生が、メノラーを書くことで暗い墓地で再生の光を待つのだと言っているだろう、Good Enough というくらいだから、グッドイナッフ先生の言うことで十分じゃ。じいさん、何じゃその寒い冗談は。

確かに、実際に整理されて出版されている骨壷などの碑銘にそのように解釈できないこともない程度なら、いくらでもある。ヴァメーシュじいさんがたくさん挙げているが、次のものが一番はっきりしているし、考えようによっては面白いので引用し、その後、夫婦愛を示す碑文を紹介して、今回はずいぶん長くなったし、終りにしよう。

碑文・碑銘は、ユダヤ人が生活していた環境によって現地の言葉が使われ、必ずしもヘブル語ではない。(なお、本書でBSというのはBeth Shearim という有名なカタコンベの略号で、その後の番号は整理した碑文の番号。また、CIJという記号とその後の番号は、欧州地域を含めたユダヤ人墓地の碑銘カタログの番号である。このカタログは1930年代の出版で貴重書。)

ローマのユダヤ人 Leo Leontius という男は、自分の墓にこう書かせた。「友人諸君、私はここで貴殿らを待っているからな(Amici ego vos hic expecto)」、すなわち、死んでも生きて待ち続けるというわけだが、単なる冗談とも取れることが、証拠としては難。次のものも同じローマのユダヤ人だ。ラテン語はタイプするのが面倒なので日本語訳だけにする。

ジーナここに眠る、この墓に納められて
この墓は、夫が彼女の愛に応えて建てたもの
彼女は再び生き返るであろうし(この世の)光の中に再び立ち返るだろう
彼女こそは再び立ち上がって永遠に生きながらえる希望を持てるのだから
価値あるもの敬虔なるものへの真実の信仰によって約束されているから
彼女が神聖なる地において居場所を確保するのは当然だ」(p. 55)

確かに、「立ち上がる(ラテン語surgere)」は、復活を意味する特殊用語ではあるが、これって立派なお墓を造ってやったってだけじゃないの。まあ、これから新約聖書の検討に入るのだけれど、今まで見てきたことは頭の片隅に入れておけということらしい、じいさんとしては。あーあ、本書の前半というか、5分の2くらいは進んだのだが、じいさんが言うには終りまで付き合ってくれってさ。皆さんも読まされてご苦労さん。

今回もユダヤ教の知識などがないとちっともわからないことを、ヴァメーシュはあっけらかんと書き流しているので、教養課程の何も知らない学生でも一般の読者でもなるべくわかるように、だいぶ説明を加えている。(この本は、英語そのものは日本の高校生でも楽に読めるやさしいものだが、翻訳して出版するとなると専門家でない限り泣きをみるよ。)

この辺りは、著作権は私にあるのだが、著作権が私にあるというとき、私の場合は勝手に使うなということではない。私の書いたものはヴァメーシュの版元の著作権を侵害しない範囲で書いているので、どうぞご自由にお使いなさい、ということだ。

経済的リスクを負っているかわいそうな版元がある私の著作に関しては自由に使ってもらっては困るが、私のブログ記事は初めから経済権は放棄しているから、よかったらいくらでも使ってくれ。引用の事実くらいは明記してね。(陰の声:心配しなさんな、誰も使わん、てか、誰も読まん。)