Comments by Dr Marks

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No. 13.

コメントにならないコメント−28 (ヴァメーシュの『イエスの復活』「復活と永遠の命に関するイエスの教え」前編

コマーシャルの後に始まります→http://www.cnn.com/video/#/video/politics/2008/07/25/bash.mccain.vs.obama.cnn

マケインじいさんは、イラク戦争に負けるよりは、喜んで選挙戦に負けること(willing to lose a campain rather than lose the war in Iraq)を選ぶサムライだ。選挙のためなら今日と明日の言動がフリップフロップオバマのような嫌な奴とは大違いだぜ。

井上ひさしの自伝的小説に出てくる神父は、一介の市民が内閣総理大臣でもないのに日本を代表するつもりになっちゃいかんと言ったが、オバマのお馬鹿も大統領になってからケネディーみたいにドイツ語でやってご覧よ。彼は市民の一人として演説したくせに、一市民としてあるいは上院議員としてドイツ駐留のアメリカ軍は訪問しなかった。アフガニスタン駐留のアメリカ軍は訪問したのにね。

理由は大統領選挙戦の費用で来ているから不適切だと思ったからだって、そんでアスレチックジムなんかに入ったわけ。マケインじいさんは、不適切なことがあるもんかアメリカ市民なら訪問するべきだと言うし、ペンタゴンなんか呆れ顔で、「えっ、飛行機を軍の飛行場に泊めさせてって言うから泊めさせているのに、オバマさん、そんなことを言ってるの?
ポカン(・_・)
」だってさ。

捕虜収容所時代のマケインの姿も

ヴァメーシュじいさんは新約学プロパーではない。だから、これからの新約聖書に関する議論は、ある程度聖書に通じている人にはとくに面白いものではないかもしれない。てか、ヴァメーシュに限らず、「復活」などというテーマは、近代以降はまったく人気はないのである。正確に言うと、既に見たように、まともな人は古代から復活など信じちゃいない

ええっ、復活を信じるのがキリスト教でしょう? それはその通り。しかし、パウロ教についてしまったプロテスタント諸派は、毎年春の復活祭が近づくと申し訳程度に復活が説教のテーマになるが、比喩的理解に留まることが多い。実は、この傾向はプロテスタント諸派だけではなく、彼らが出てきたローマカトリックでも元々大差はない。

これら西方教会は何が前面に出るかというと、「罪」の問題である。いきおい倫理的面が教会生活に反映されるから、「苦しいチャン」のイメージが、日本でも広まることになる。このことについては、場を改めて書くこともあるだろう。書かないかもしれない。なぜって? だいたい、そういう話は大嫌いの生臭だからさ。俺は絶対にクリスチャンを前にして、「あなたはー罪を知りまーしたかー」なんて聞かないね。一々聞かなくても知ってる者は知ってるのだから、それでいいのだし…。そうね、今度聞く者がいたら、「何時間の講義がご希望ですか」とでも答えるかな。

復活にかける信仰の程は、カトリックならびにプロテスタントに比して、東方教会ギリシア正教など)がはるかに敬虔であることは、誰しも否定はしないだろう。彼らは、少し大袈裟に言えば、議論したり詮索しても仕方ないことはしない。心からイエスの復活を喜び、自分たちのよみがえりにも希望を託するのである。もうもうとした香の煙の中で小谷野先生、実は、これってタバコの煙よりきついよ)もうろうとした意識の中で(トランスというほどではない)心から神をあがめるのだ。

本論に入るが、いきなりで申し訳ない。「復活と永遠の命に関するイエスの教え」とヴァメーシュが題したところで大したところが新約聖書に書いてあるわけではない。普通は、上記の西方教会でのパウロ先生の役割とは裏腹に、このパウロ先生こそイエスの復活のチャンピオン(擁護者)なのだ。復活を信ぜずして、なかんずくイエスの復活を信ぜずして、信仰はむなしい、などと言っている。

エスが復活の初穂、一人の人(アダム)から死が入ったように一人の人(第二のアダム=キリスト・イエス)によって人が生かされる、と言い、ときには論理を逆転させて「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」(第一コリント書15:16)とも言うのは、誰あろうイエスではなくパウロだ。パウロの復活の神学はアダムとの関連からも十字架の神学の裏表の関係であるが、なぜか西側では十字架上の贖いの神学が強調され、死に打ち勝った勝利の神学は、復活という不合理な主張のために日陰者の悲哀をかこつこととなる

また、自画自賛になるが、ユルゲン・モルトマンの十字架の神学(theologia crucis)に対応した復活の神学(theologia resurrectionis)という言葉(造語)が初めに登場したのは、何を隠そう Dr. Marks の論文においてなのだよ。そのうち有名になるはずなのに、まだあまり知られていないようですね。てか、あまりにもすんなり神学者の意識に入るので、theologia resurrectionis なんてラテン語は中世神学のどこかに出ているといまだに勘違いしている学者が多い。この業績だけでも一流のはずなんだがなあ。

また道草してしまった。なにしろ、ヴァメーシュもこの章は道草である。次の章でイエス自身の復活について語り、その次の章でイエス以外の者の復活について語るのだが、ここで福音書にまつわる交通整理がある。念のために言っておくが、福音書とは新約聖書27巻のうち、最初の4巻(マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝)のことであり、イエスの生涯が綴られている。

生涯といっても、マルコ伝はイエスが30歳頃に活動し始めたときからだし、マタイ伝とルカ伝は誕生から始まっていても、ルカ伝のみが少年時代のエピソードを記しているにすぎない。ヨハネ伝となると、イエスがこの世に人として生まれ落ちる前の、言わば前世から始まるわけで以下に説明するように特異な福音書である。なお、教会等で使用する福音書には4巻すべてに復活のイエスが登場するが、写本レベルで確認される古いマルコ伝には、イエスの埋葬された墓が空であるというところで終わり、復活のイエスは登場しない。

ヴァメーシュはここで、数少ないイエスの言説の部分を紹介するが、共観福音書ヨハネ福音書ヨハネ伝)に分けて記述している。共観福音書ヨハネ伝は性格を異にするからである。共観福音書とはマルコ伝、マタイ伝、ルカ伝のことであるが、内容が似ているので、「共に観ている」として一グループとするのである。ヨハネ伝の様相は一度読んでみれば誰でもわかるように全く異なる。

共観福音書ヨハネ伝の違いは、その内容ばかりではない。共観福音書の中でも一番古いマルコ伝と比べれば、学者の見方によって相違はあるが、少なくともヨハネ伝は一世代後、ひょっとすると半世紀後の福音書であり、イエスと同時代の弟子たちの多くが世を去ってからの著作である。なお、すでに説明したように現行聖書の福音書の順序は、教会における権威上、マタイ伝が筆頭であるが、学者はしばしば、このヴァメーシュのようにマルコ伝を筆頭に並べる。成立の順に並べるほうが議論の展開に便利だからである。

整理するだけで、だいぶの字数になったので、ここまでで前編とする。それに、マケインのニューズを聞かなきゃね。明日も予定が詰まっているし、忙しいんだよ。