Comments by Dr Marks

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No. 14.

コメントにならないコメント−29 (ヴァメーシュの『イエスの復活』「復活と永遠の命に関するイエスの教え」後編)

出先でコンピュータを叩く時間はあまりなく、帰宅して夕食をすましたら不覚にも寝てしまった。今、夜中12時に起き出してタイプしている。従って、毎日ヴァメーシュを晩飯の後にオンする予定だったが、今日は数時間遅れることとなってしまった。

前回予告したように、ヴァメーシュは「復活」と「永遠の命」に分けてここでは議論している。もちろん、この二つは不可分のものであり、二つに分けることに重大な意義があると思わなくてもよいであろう。

どの共観福音書にもある話で、サドカイ派がイエスに復活について揶揄を込めてたずねる場面がある。「イエス先生、ここに子のないやもめがいるとします。次に夫の兄弟と結婚しました。するとこの夫も彼女を残して死んでしまいました。この二番目の夫との間にも子はありませんでした。同じようにして次々と兄弟七人の夫を得ながら、子を得ることもなく、このやまめも死にました。復活のあかつきには、このやもめはどの夫の妻となるのでしょうか」と、質問した。以上は、マルコ伝12章、マタイ伝22章、ルカ伝20章にあるパリサイ派の質問の概略である。(ヘレンという米寿近いおばあさんは、子供がいなくて弁護士の姪御さんと住んでいる。フランク・シナトラの秘書だった人だが、話を聞いて唖然。いずれも子なしで三人の夫と死に別れ、四人目とはとても結婚する気にはなれなかったそうだ。ただし、三人の夫は兄弟ではない。)

夫との間に子のない場合は夫の兄弟と結婚するのはレヴィレート婚と言われる古代のしきたりで、ユダヤの民も律法に記された習慣(申命記25章)として行っていた。例としてはルツとボアズの結婚がそうだが、もちろん結婚しなければいけないということではなく。双方が合意した場合である。重要なのは、その際、最初に生まれた男の子は前夫の子、すなわち前夫の跡継ぎと定められるということである。自らは復活を信じないサドカイ派が、この律法の規定を利用してイエスに難問を与えて試す場面である。

このエピソード自体、実際にあったこと(史実)とみなす学者は少ない(例のジーザス・セミナーに限ったことではない)。しかし、この場でのイエスの答は、イエスが日頃いだいていた考えであるとみても間違いはないであろう。

エスは、この世的な夫婦の関係なら夫婦は一対であり肉体においても結ばれるものというパリサイ派の思い込みに対し、心得違いも甚だしいと批難する。復活の夫と妻は天使のようなものであると答えるのだ。ここから、復活は、生前の肉体的な機能を伴わない霊的なあるいは魂の復活と受け取られかねないイエスの復活観がうかがえる。この肉体の属性のない天使という思想はエスと同時代の旧約聖書偽書文献である第一エノクや第二バルクにも見られる考えである。

対して、ヨハネ伝になると、復活は一様に終末のD-Dayすなわち予定日(Final Event)としてしばしば登場する。そもそもヨハネ伝はイエスの存在は天において先住したものであり、イエスは、しばしのこの地上での生涯を終えられて再び天に帰られた方である。このお方は、ヨハネによれば、再び地上に来られ(再臨)死者をよみがえらせ、この世界を裁くことが主たる使命であることになる。

しかし、全体としては義人の復活だけで、悪人もいったん生き返って裁かれるという場面は、5章の29節だけである。しかし、ヨハネ伝においては、パンとぶどう酒(体と血)に象徴される受肉の比喩(cannibalistic allegory)のように、肉体を伴う復活観がうかがえる。ヴァメーシュは、共観福音書に通ずるイエスと同時代の旧約聖書偽書文献の思想とは別なヨハネ伝の思想に、異教から改宗したヘレニズム世界キリスト教徒の姿を見ている。

つまり、キリストの兄弟ヤコブが、パウロの異教徒伝道を認めた際にも譲れなかったユダヤ教の習慣である血の禁忌(使徒行伝15:20)をイメージさせるキリストの体と血(パンとワイン)を食することは、パレスチナユダヤ人なら、聞いただけで吐き気をもよおすのではないかと、ヴァメーシュじいさんは心配するのである。冗談だけど。

肉体を伴うかどうかで言えば、永遠の命に関して、共観福音書には、永遠の命を得られぬほど悪いことをする、例えば手があったとしたら、そんなものは切り取ってしまいないという場面がある(マルコ伝9章、マタイ伝18章)。五体満足であるよりは永遠の命をとるというが、五体不満足な形で生まれ変わるのかどうかは定かでない。変な話だが、永遠の命が肉体を伴うのでなければ、五体満足も五体不満足も関係ないのである。

エスが共観福音書で永遠の命を語る際は(といっても例は少ないのだが)、死後の命の詳細には関心がなく、神の国に入れるかどうか(つまり永遠の命の国)に入れるかどうかが重要な課題となっている。金持ちが永遠の命を得ようと試みる場面では、この世的なもの全てを放置して神の国に入るということが問題なのだ(マルコ伝10章、マタイ伝19章、ルカ伝18章)。なお、マタイ伝は、神の国は「天の国」になることに留意したいが、意味は同じである。

永遠の命に対する概念は永遠の刑罰である。共観福音書の中ではマタイ伝の25章に例がある。これはイエスの同時代の旧約聖書偽書文献である「エノクのたとえ」にもある思想である。なお、「エノクのたとえ」とは、大部の偽書第一エノクの第二部のことであるが、マタイ伝25章と同様、終末論的な終わりの時、裁きの時との関連で述べられている。

共観福音書においては4回しかない「命」あるいは「永遠の命」に関する記事は、ヨハネ伝では25回ある。有名な3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(新共同訳)」に代表されるように、永遠の命は、ヨハネ伝のテーマである。ここにおいても、共観福音書に見られるようなイエスの言葉に従うという信仰よりは、独り子イエスの父なる神との関係、すなわち独り子が世を救うという図式を信じる信仰が重要なようである。

次章は、イエス自身のイエスの復活に関する予告について検討する。まっ、期待しないで待っててね。どうも、疲れのせいか冗談がいまいち出ないわ。よっこらしょ、っと。←あれ、AAの書き方忘れちゃった。夏ボケ?