Comments by Dr Marks

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No. 15.

コメントにならないコメント−30 (ヴァメーシュの『イエスの復活』「イエスの復活に関するイエス自身の予告」)


英語でも日本語でもいい映像がないのでドイツ語で「救命蛇」と入れてみたら、蛇が助けるのでなく蛇が助けられる話だった。やさしいドイツ人。


今日、日曜日の午後、近くのコンビニで宝くじを買ってから、側のユダヤ教書店によって本を買った。そう、ヤマカ(キュッパ)とか買える店だ。ちょうどキリスト教の書店みたいなもので、ユダヤ教の小物も扱っている。店内を見て歩くのはなかなか楽しい。(宝くじは各1本ずつ3種類買った。なかなか当たらないが、当たったら日本のおままごとみたいな賞金とは桁が違う。)

考えてみれば、ユダヤ教徒は絶対に土曜日には店を開けないが、日曜日には開く。近くに幾つもあるシナゴーグも開いているので、結構、開けている限り売れるのだろう。今回はヤマカは被らないで店に行ったが、以前、ヤマカを止めるピンを何本もしていたら、2本でいいと「馬鹿にしてくださった」店員が本の相談に乗ってくれる。旧約学も少し突っ込むと、キリスト教書店よりはユダヤ教書店が便利なことがある。店員はヘブル語に堪能だから、今日のように相談にも乗ってくれる。

再び考えてみれば、私はクリスチャンだから、今日のブログは休んだほうがいいのだろうか。一週間に一度の休みというのは本当に人間には必要だな。ちょっとまとめて寝てみたい。近頃、6ポンド太ってしまったのは寝不足のせいだ。寝ないと人間は太る。これ、生理学の常識。とか何とか言いながら、書き始めちゃった。

ヴァメーシュは、イエス自身が己の復活を予告したと福音書記者が記していことについて、これを普通言われるような空の墓と復活のイエス「事件」があってからの後付記事とは考えていないようだ。この章でヴァメーシュは、イエスの受難予告まで復活予告に数えている節もあるが、少なからず、受難の後に復活する予告もあることは確かだ。そして、それらは、すべてではないが、真実の記録であるという。

それではなぜ、ヴァメーシュは、予告の実在を疑わない かというと、実際に空の墓と復活のイエス「事件」が起きたとき、彼らはほとんど信じなかったからである。何? 信じなかったのは、ちゃんと予告しなかったからじゃないの? んにゃ、我々はしばしば、ヴァメーシュと同じ考え方をする。簡単に説明しよう。「当惑あるいは矛盾の決定基準」と言われるもので、つじつまの合わないことを書いていたら、むしろ本当だという考え方だ。

つまり、イエスが自分の復活を予告していたという元の話のそれぞれは本当であるから福音書記者がそれを書いた。次に、イエスの空の墓と復活「事件」があったとき、弟子たちは、まさかと思っていたのだし、にわかに信じられなかったのも本当だから、ありのままに福音書記者は書いた。この場合、つじつま合せなどの手心が見えないほど真実であるという考え方だ。
しかし、ペテロがイエスの予告に心配のあまり、イエスを連れ出してまで「馬鹿を言いなさんなイエス様」といさめたあたりは、マルコもマタイも意識的に書いてるよなあ。ルカとヨハネは書かなかったけど。ルカなんかは「説教ペテロ」の部分だけ削除だから、やはり意識的というしかない。

先ほど、ヴァメーシュは受難と復活をミックスして記述しているところがあると書いたが、確かに受難と復活は一連のことであるから理解できないこともないが、この「当惑あるいは矛盾の決定基準」を適用するための例証に混乱が認められる。弟子たちが、まさかと思い、信じられなかったのは、イエスの逮捕から始まっているが、あれはローマ軍ないし神殿兵士に対する恐れがあるのであり、まさかと思い、信じられなかったからイエスを捨てて逃げ惑ったのではない。ましてやペテロの雄鶏が鳴く前の「三度の否定」事件は、イエスの復活の予告とは関係がない。

そう考えると、四福音書が揃ってイエスの空の墓と復活のイエスが出現した「事件」について、弟子たち全てが困惑し事情が飲み込めなかったと記していることは信用できるが、生前に果たして予告したかどうかについては、疑問の余地がのこると私は考える。(四福音書揃ってということは、「複数証言による決定基準」によって、真実性が高いと判断される。)

以上で、ヴァメーシュの議論の根幹はすむのであるが、予告とされる二、三について紹介しておく。新約聖書を読んでいる人たちは、以下は読まなくてもいいくらいだ。実際、このような詳細な部分になると、ヴァメーシュじいさんをからかったと思われるイギリス国教会の重鎮学者であるライトじいさんの『復活』のほうがずっと読み応えがあるのかもしれない。

エスの予告とされるのは、例えばマルコ伝8章31節のように、端的に短く文字通りに予告するのであるが、ルカ伝に顕著なように(18:31、24:25−26、44)旧約聖書の預言の実現として予告することもある。そのほか、共観福音書ヨナの引用や、ヨハネ伝の青銅の蛇のたとえは、いずれも旧約聖書からの預言に関わるものとしてイエスが生前に口にしたとされている。

ヨナの話は、ヨナが魚の腹の中に三日留まったことで、イエスのよみがえりまでの時間の預言とされる。なお。三日目と三日の後は、正確にいうと異なるのだが、いずれにしろ、古代には(ユダヤに限らず)数え始めた日を数の中に含めることに注意したい。つまり、金曜日に死に、日曜日に生き返ったら、三日目に復活したと数える(1日=金曜、2日=土曜、3日=日曜)。

三日に関しては、古くはアブラハムがイサクとともにモリヤの山に登って、いけにえを捧げる場所に着くのが三日目だし、「創世記ラッバー」(アモライーム期=紀元3−5世紀成立のミドラーシュの一つ)に、霊魂は三日間は死骸の側を離れたくない、と書かれているというのは面白い。ただし、ミドラーシュはかなり正典聖書本文から逸脱した記事が多いし、イエスの頃に伝承が遡るのどうかも疑問である。

ヨハネ伝3章の青銅の蛇の話は民数記21章にある。イスラエルの民が逆らって荒野の不満を述べたときに、神は毒蛇を彼らの中に送り懲らしめた。多くの死者が出て驚いた民が懇願するので、神はモーセに青銅の蛇を作らせ、それを旗ざおの先に掲げさせ、これを仰ぎ見るものは死なずに命を得ることとした。

ついでながら、医神アスクレピオスの杖の蛇が病院のマークになっているとされるが、モーセの青銅の蛇も救命の印である。アスクレピオスなら、ソクラテスがしたように鶏一羽を捧げても生き返らないが、青銅の蛇なら見上げるだけで命が助かるから安上がりだ。

だから、今度、病院の蛇はアスクレピオスのでなくモーセの蛇にしてくれと頼んでおこう。でも、そんなことを頼みにいったら、精神科病棟に回されてしまうかな。(なお、ヘルメスの杖のケリュケイオンは関連しないと思う。)