Comments by Dr Marks

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No. 17.

コメントにならないコメント−32 (ヴァメーシュの『イエスの復活』「イエス自身の復活に関する福音書の説明」前編)


http://www.netfilehost.com/wscal/GuestLectures/bauckham.07.11.14.mp3

このMP3は、昨年(2007年)、カリフォルニアのウェストミンスター神学大学で行ったボーカム先生の四福音書に関する講演(思いっきりケンブリッジ英語)

そうそう、あのアーマンとも言われるイーアマンの正典聖書の成立理論とも一味違う内容だよ。てか、こちらが新しい主流。


いよいよイエス福音書に記された復活「事件」を丁寧に読むところに入った。ボーカム(Richard Bauckham、WPにあるよ)先生じゃないが、神学というのは面白いものではないし、馬鹿でも適当な話をでっち上げていればいい。しかし、聖書学や文献学はごまかしが利かない。それに考古学などが加わると、十分に他の学問領域と会話ができる

しかし、文献学が進んだ19世紀から20世紀前半には、ずいぶんと文献学の井の中の蛙的独断に陥ることもあった。やはり、哲学を含めた神学の反省も必要かもしれない。ただし、私の言う哲学や神学は、教会教義学や組織神学のことではない。こいつが最もつまらない学問分野なのだ。教会教義学や組織神学は、神学史の中で捉えておかなければならない基礎知識に過ぎないのであって、それ以上ではない。大事なことは方法論の絶えざる反省である。

というわけで、三位一体だとか、神議論などにうつつをぬかしているよりは聖書そのものを読めとなるわけで、本当にボーカム先生の言うとおり、「わたしゃね、キリスト教倫理とか組織神学とか、ああいうのには何というか(陰の声:馬鹿みたいだから)興味がなくてね、ケンブリッジで専攻を決める際に、聖書学関連の研究に入ったわけですよ」なのだろう。あっ、これはボーカム先生がどこかに書いているということでなく、私たちが先生に直接聞いた話だからね。

さて、ここから一気にヴァメーシュじいさんの結論に行くわけだろうが、一応、丁寧に福音書使徒行伝やパウロ書簡などの説明に入る。今までは、さすがにヴァメーシュ先生はユダヤ学の権威だなと思っていたが、あらかじめ読者をがっかりさせておけば(こら、あらかじめがっかりさせる奴があるか)、いわゆる「ネタばれ」になるが、ヴァメーシュじいさんは、いかにも元ローマ・カトリック教の僧侶だよ。ある種のプラトン的復活観からは出ていない。ただし、同じカトリックでも、クロッサン(J.D. Crossan)じいさんほど飛んではいないし、故ブラウン(Raymond E. Brown)師ほどは固くはない。

そうだ、この業界では若手のマイヤー(John P. Meier)師が密かによいよ復活を書き始めているかもしれない。彼の場合は典型的なイエズス会士でしつこく丁寧に、かつ膨大に書き散らすから、多分、資料的にはとても面白いものになりそうだ。ボーカムと同じ英国国教会のトム(N.T. Wright)じいさんの復活は、資料的価値もあるが、冗長で杜撰。マイヤー兄貴は、その点、病的に正確だ。日本の血液型判定で言えば粘着系B型か。

どうも脱線する。これも日本式血液型判定では分裂系B型か。俺のことだ。ともかく、さまざまな復活に関する考察が出ている中、ヴァメーシュのものは、かなり教科書的であると言いたいのだ。逆に言えば、安心してこのテーマを概観できる。気づいた方もいらっしゃるかもしれないが、この本なら学生に買わせても高くはないし、予習させるのに学生の負担は軽いし(薄い本)、講師は私みたいに適当に脱線して周辺知識を切り売りすれば、1コースができあがる。

この章で、ヴァメーシュは面白い説明の順序を取る。今までのように、四福音書の古い順から、つまりマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネとするのではなく。逆に、ヨハネ伝からマルコ伝に進む。なぜか。マルコ伝の終結部(英語では単に ending と言っている)が問題になるからだ。

マルコ伝の確認できる現存最古の終結部は、現在、我々が手にする聖書の16章8節で終わっている。しかし、我々は、教会において、その続きの16章19節までを正典聖書の範囲としている。学者は便宜上、8節で終わっている古写本を短い終結Shorter Ending)、19節まで続くものを長い終結Longer Ending)と呼んでいる。実は、この二つのパターンだけでなく、幾つもの古写本のパーターンがあり、私は大きく5パターンにわけて説明したことがある

さらに、最も古い古写本(断片だけの写本は除く)といっても4世紀であるから、その前に別の私たちの知らない終結部があったと仮定することもでき、そのように主張する学者も多い。しかし、その差はわずかながら、8節で元々終わっていると主張する学者のほうが多数派である。その議論は、かなり複雑なので紹介はしないが、私自身は多数派に組している。

多分、長い終結部こそ、現存する写本は古くないかもしれないが、オリジナルに元々あったのでは、と考える方もいるだろう。なかなかよい推理である。しかし、残念ながら、内容を語句レベルから検討すると、後で作られたルカ伝やヨハネ伝からのパッチワークが長い終結であることが明らかであり、8節では元々終わっていなかったと主張する学者も、現在の長い終結部がそれであるという人はほとんどいない。

ヴァメーシュは、以上の定説(あるいは多数意見と言っておこう)に基づいて議論するに当たり、問題のある終結部を説明するためにも、順番を逆にしたようである。面白いやり方であり、私も今後まねをしようと思っている。かくして、次はヨハネ伝の詳細に入るが、次回の楽しみとしておこう

今回は、学会事情など、予備知識がないとむしろ難しい話になってしまってすまなかった。次回は、聖書本文そのものに入るので、今日のところは許してくれ。しかし、マルコ伝の大別二つの終結部のことは、初耳の人には面白かったと思う(勝手に悦に入るな)。