Comments by Dr Marks

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No. 31.

コメントにならないコメント−46(ヴァメーシュの『イエスの復活』「新約聖書における復活概念の意味あるいは意義」後編の1)

ヴァメーシュは、ここでつまらない話題で締めくくる。確かに、「つまらない」などと言ってしまえば身も蓋もないが、実際この話題は、組織神学のイロハを学んだ人であれば「な〜んだ、つまらない」になることは必定だ。(参考文献:古いが今でも意外に役に立つ Louis Berkhof, Systematic Theology, Grand Rapids: Eerdmans, 1939. リプリント版で入手は簡単。)

しかし、こんな何でもないが、キリスト教や聖書を生半可にかじって、アンチ・キリスト教だと息巻く能天気がよくやる内容とも重なるので、その意味では面白いかもしれない。そうだよ、アンチ・キリスト教の君、こんなことは初歩の初歩で誰でもキリスト者なら知っていることだよ。ともかく紹介する。

エスの復活を説明する六つの理論

本当は八つであろうが、そうすると二つは議論の対象にもなりえない代物なので省略する。それは、根本主義者の盲目的信仰と、真面目に考えもしない(out-of-hand)頑固な懐疑論者である。(陰の声:だから、六つと言っているのは、その間に位置する考えと取ってもいいようだ。)

ところで、根本主義というのは、聖書の文言どおりに信じているというわけではない。一般にそのように理解しているのは間違いだ。彼らは実は、教会の歴史の中で再解釈された伝統のある一部を無批判に信じているだけである。決して、テキストに忠実なわけではない。骨っぽい難しい箇所は適当に滑らかにして、厄介な議論は避けて通っているだけなのだ。反対に無神論は、復活物語のすべてが初期キリスト教の作り話であると、無批判に一言で片付ける。

以下の六つの説明は、もともと福音書そのものが示唆しているものであったり、2000年の歴史の中で浮上してきた考え方であり、あるものは古代からすでに問題となっていたものである。

(1)イエスとは関係のない第三者によって死体が墓から取り去られた

ヨハネ伝によると、マグダラのマリアは空の墓を見つけ、二人の天使に「私の主が取り去られました」と告げ、後にイエスを園丁と間違えて、「あなたが運び去ったのなら」と問うている。墓を暴(あば)くことは稀ではなかった。それゆえ、墓碑に「暴くものに呪いを」といった呪文を書いたものである。

そもそもイエスの埋葬は安息日(土曜日、実際は金曜日の日没から)を間近にして急遽なされたものであり、もともとアリマタヤのヨセフが持っていた園にある新しい墓を利用したのであるが、それはあくまでも間に合わせであると考えることも可能である。従って、マリアが園丁と勘違いした復活のイエスに、上記の如く質問することも頷ける。なぜなら、園丁が園の墓の管理人として、仮ではなく本格的に埋葬できる場所に移す任務を担っていたと考えることも自然だからである。

かくの如き非常の埋葬であれば、種々の第三者の介入もむべなることとなる。通常、埋葬は近親者の男子の責務であるが、福音書に示すように兄弟たちはもちろん、弟子たちも埋葬には居合わせず遁走潜伏している状況であった。わずかにアリマタヤのヨセフ、またヨハネ伝によればニコデモが近親者の代わりに埋葬を執り行ったにすぎない(この有力者二人に、彼らの従者が助力した可能性は除外しない)。また、ヨハネ伝のとおりにアリマタヤのヨセフとニコデモが十分な没薬(もつやく)やアロエを死体に施したのであれば、共観福音書のように女たちが死体の処理に来る必要はなかった。(注:そもそも男であるイエスの死体の清めの儀式を女が?)

しかし、こういった死体の移動が善意の者たち(ヨセフとニコデモあるいは彼らの命を受けた園丁ら)によるとするなら、この理論はごく単純な疑問によって崩壊する。つまり、マリアがしたように、園丁あるいはヨセフやニコデモのような逃げも隠れもしない人たちであるから、誰でも移動の事情を聞けば済むことであろう。(陰の声:それでも、反論はできる。善意の者たちは、イエスの本当の埋葬地を悪意の者から遠ざけるために口をつぐんだ。つまり、聞かれても知らぬ存ぜぬ。)

(2)イエスの体は弟子たちが盗んだ

このことについては、マタイ伝が聖書中で既に反論していることで有名だ。こんな悪らつな風評を流したのは大祭司たちの仕業であり、マタイが福音書を書く頃までも流布していたというのである。その内容は、弟子たちはイエスの死体を密かに運び出し(spirited away)、奇跡の復活を遂げたように見せかけたというものだ。この話の背景には、死人からイエスが復活することに関して、偽の預言がパレスチナユダヤ人の間に広く知られていたということがある。

しかし、この理論も不可解なのは、イエスに近い者たち(インサイダー)が実際にイエスの復活を信じていない、つまり、信じていないからトリックを使って復活したように見せかけるということなら、ましてや無関係な者たち(アウトサイダー)が信じてなどいないわけである。まさにマタイが記録したように、弟子たちの誤魔化しであるというのは、むしろ後代のゴシップの域を出ない。この復活理論は限りなく無効に近い(next to nil)。

(3)空の墓はイエスの墓ではなかった

以上の二つの理論は、直接に福音書と関係するものであったが、これからのものは、共観福音書からの推定であっても、かなり微妙な解釈である。まず、墓のありかをつぶさに知っていたのは女たちである。男の弟子たちはその場に居合わせず、正確な墓の場所は知らなかったかもしれない。実際に、弟子たちは女たちの報告を信じなかった(注:墓を違えたのであろうと明言してはいない)。

確かに、岩をくり抜いたパレスチナの墓を見ればわかるように、幾つもの墓室が連なり複雑な構造をしている。更に、時間は遅く、暗がりの中での墓の確認は難しかったろうし、時間の早い朝の墓への訪問も誤認の可能性を含む。そうであれば、彼らの味方であるアリマタヤのヨセフのところに行って、弟子たちは確たる墓の在所を尋ねたことであろうと思う。

しかし、彼らがそうしたという記録はない。なぜか。確認するよりも前に、復活のイエスの出現が彼らに確信を与えたとすれば、墓が正しかったかどうかの確認など無用であったろう。墓の誤認という理論そのものは可能性としてある。しかし彼らが、墓だけではなく出現によってイエスの復活を確信したとすれば、その時点で、墓の誤認理論も意味をなさなくなる。

長くなったので、残りの三つは次回とする。そこで、「後編の1」というようなことになってしまった。次回が「後編の2」である。従って、最終回はその後となる。