Comments by Dr Marks

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No.4 『聖書のおんな』―2. サラの巻(3. サラ時代)

前回でサライ時代が終わっているわけではない。16章のエピソードを語るとすれば、サラはまだサライのままである。しかし、ここはハガルとの確執の始まりなので、次回のサラの巻続編でハガルを扱う際に戻ってくるから、今回はサラ時代とすることにした。

ともかく、『聖書のおんな』とすれば、サラを主人公に据えなければならないだろうが、とくに個人的には面白みを感じない。むしろ、物語性はハガルのほうが高いのではないかとさえ思う。現に、著者が著者ということもあるが、最近の論文でサラとハガルを対比しておきながら、主人公はハガルの観を呈していたのが印象的だった。*1

しかし、サラを、女性一般、あるいは人間一般としてみるならば、16章のハガルとの確執においても、パウロによって神学的に理想化されたサラよりもはるかに現実的な人間のにおいがして面白い。この16章においては、ハガルとの確執から派生して、夫アブラハムとの対立もあり、そこに今日どこにでもありうるような物語が読み取れる。

少なくとも、16章の記事でサラは、アブラハムの子を宿したハガルが、優越感から不遜な態度を女主人のサラに取っても、サラは直接ハガルに注意したりなじったりはしない。主人は直接は召使に言葉をかけないなどということではない。たとえ、ハガルに悔しい思いをさせられても、女主人で妻(אשה)であるサラとしては、召使で妾(פילגש)の彼女に「悔しい」などと口が裂けても言えないのではなかろうか。

そこでサラはどうしたかというと、やはり夫であるアブラハムに向かうしかない。アブラハムに向かって、「あなたのせいですよ。主が私とあなたの間を裁いてくださるように」などと、嫌味を言うことになる。もちろん、ここには二重構造がある。裁くのは主である、と言いつつ、実際に一家において、また一族において、裁き役は現実には目に見えない神ではなくアブラハムなのだ。そのことを知りつつ、サラは「さあ、どうしてくれるのよ」と夫に詰め寄っているのである。

17章で神は、サライはサラに改名しなさいと告げるが、サラ自身は登場しない。次に出てくるのは18章で、アブラハムが三人の客人(天使)を迎えるところである。*2

三人の男が目の前に立っているだけで、アブラハムは彼らが只者ではないことを悟る。急いでひれ伏してもてなしを申し出る。もっとも、ベドインの社会では今日でも見知らぬ客人を厚くもてなすことはあるのだが、この場合は尋常ではなかった。三人のために盛大な祝宴の用意である。例えば、パンを作るための上等の粉3セアとあるが、これは今日の25リットルの量であるから、3人では食べきれるわけはなく、またほふられる家畜や乳製品のことを考えれば、大祝宴であることは明らかである。

こういう危急の場合に、アブラハムが頼れるのはサラである。有能な妻を持つ夫は幸せ者だ。事実、サラに「急ぎ用意してくれ」と頼んでいる。エジプトで、彼女が評判になり、ファラオに知られるようになったのは、彼女の美しさだけではなく、このような家政(home economics)の能力ではないかということは既に書いた。

しかし、18章を読んでみればわかるように、サラは宴会には出てこない。既婚の女性が人前に出ることはなさそうである。しかも、大祝宴と書いたが、ホストであるアブラハムは給仕に徹しており、一緒に食事はしていないと見ることもできる。それでは、何ゆえの大量の食材なのであろうか。三人の客人をもてなす係りも食事どころではないが、残り物が彼らの取り分となり、慰労を兼ねた大きな意味での祝宴に連なっていると見ることができる。(昔の日本でも、祝い事などの宴が明けてから「残酒」と称して、正式な宴に招待されなかった人あるいは奉仕してくれた人へのねぎらいの席が設けられたものである。)

宴会には出ないが、テントの中で客人と夫の会話は聞こえる。客人が来年の今頃までにはサラに男子が誕生すると告げると、密かにサラは笑う。年老いて月のものもないし、第一、夫との「楽しみ」(עדגה、ここでは「セックス」の意味)もなくなっているのに、どうして子ができようか。すると、すぐに主はサラではなく、アブラハムに言う「サラはなぜ笑ったのか」と。サラは恐ろしくなり「笑いません」と打ち消すが、主は再び、「いや、確かに笑った」と断定し、対話は終わる。

サラという女性はやり手であり、諸能力にたけた妻であったと思う。子供がなくてもアブラハムは、サラを愛し続け、頼りにしていた。(サラが死んだとき、アブラハムは胸を叩いて嘆き悲しんだ。)しかし、そのような人物でも、恐怖の状態では、沈着冷静な判断ができかねるのであろう。相手は神と知るからこそ笑ったことが知られて恐ろしかったはずなのに、無益な嘘を重ねてしまった「笑いません」と。

この後の20章で、既に書いたように、エジプトでファラオをだましたように、ゲラルにて再びアブラハムはサラを妹だとだます。この後21章でサラはイサクを産むのであるから、まだ「おんな」であったと考えてもいいだろうが、聖書を通読する立場から言えばかなり不自然だ。たった今18章で見たように、アブラハムとの間にセックスの関係もないような年配の婦人が夜伽に呼ばれるものなのか。(不可能ではないにしろ、不自然は不自然だ。)

そこで、旧約聖書学者の「編み出した」テキスト理論がある。すなわち、12章でのエジプト滞在はJ資料、20章でのゲラル滞在はE資料であって、異なる伝承をパッチワークしたというのである。前者をヤハウェスト資料といい後者をエロヒスト資料と言う。前者の資料は「神」または「主」と訳されている部分のヘブル語がヤハウェ(יהוה)であり、後者はエロヒム(אלהים)であるからだ。なぜ、ヤハウェストなのにJかというと、ドイツ語においてはYの発音がJで示されるからである。

このE資料の偽「妹」となると、私がJ資料で試みた2割引理論もお手上げかもしれない。ともかく、次の21章でサラはイサクを産むが、このときアブラハムは100歳だから、10歳違いのサラは90歳のはずである。2割引くと、サラ72歳の子であるが、ゲラルでアビメレク王をだましたのは、その少し前となる。ひょっとしたら60歳代後半か。

イサクが誕生して、再びハガルとの確執が21章で再燃する。この場面は、ユダヤ教ラビの論文を紹介した際に既に述べたが、次回のハガルとの話題で再度取り上げることにする。ともかく、ここでもサラは(多分)ヒステリックにアブラハムを攻撃し、ハガルとイシュマエルを追放するようにねじ込んだ。当時の一般的な婚姻関係のしきたりや財産相続の慣習と異なることらしいが、神はアブラハムに、サラの希望に沿うようにと助言する。

22章に有名な「いけにえとしてのイサク」のモリヤの山の場面が登場するわけだが、サラの姿はない。彼女は一切登場しないのだ。アブラハムはもちろんイサクに神からの命令を教えてはいない。同様にサラに打ち明けることはなかったであろう。まさか、である。サラにとって、自分の命よりも大切であったはずのイサクが、焼き尽くす捧げ物として供えられるなどと、想像するだけで気が狂うはずであるから、彼女に相談することなどありえない。

しかし、興味深いのは、その命令が神の試練であって、無事その試練に合格して帰ってからなら、サラに告白しただろうか。しないと思う。しかし、イサクが口を滑らす可能性はあるが、利口であれば、父と二人だけの胸にしまっておいたと考えるのが自然かもしれない。

晩年になって望外の喜びを味わったサラは、時折、イシュマエルとハガルの存在を思い出して不安であったかもしれないが、ヘブロンで127歳の生涯を閉じた(23章)。イサクもたくましく成長していただろう。上述のごとく、夫アブラハムは、長い二人の困難と喜びの夫婦生活を思うと、取り乱すほど悲しんだことは当然であったろう。

*1:James C. Okoye, “Sarah and Hagar: Genesis 16 and 21,” Journal for the Study of the Old Testament 32/2(2007): 163-175. 著者はアフリカ神学専攻のカトリック旧約学者。

*2:天使についてごちゃごちゃと論じる天使論(angelology)という馬鹿みたいな学問分野があるが、それは置いておいて、「天使=天すなわち神からの使い」というのは、ここに見るように羽など生やしてはいない。普通の人間の形で現れる。