Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

No. 4.

パピルス紙を広げて書く老人(当時を顧みる余談として)[改訂増補]

その老人は椅子に腰を下ろしていた。両足を交差させて座りながら、真新しいパピルス紙の上に何事か書き始めた。彼は、弟子たちと一日付き合っていたため、疲れている。しかし、しばしの間、熟達した己の技を誇るいとまに身をまかせた。


この老人は、当時の世界では、数ある知的集団の中にあって、その一つの集団を率いる学者の一人であると喧伝されていたが、もはやこの地上にあって、そう長くは歩み続けることができないことを知っている。早く眠りに付きたかったが、神が望まれるやり遂げねばならない任務があるという確信からくる、押さえがたい衝動に駆られていた。


この老人は、自分の師匠たちから聞いたことで、己の胸のうちに焼きつけられた大切な真理を、後世のために残しておかなければならないのだ。ため息をついて、彼はちらつく灯火の中でぼんやりと浮かんでいるパピルス紙を見つめ、そしてこう思った。


「果たして、遠いいつの日か、私のような誰かがこのパピルス紙を見て、ここに言葉を書き込んだ男のことに思いを馳せることがあるであろうか。ああ、しかし、そんな役にも立たぬ空想はこれくらいにしておかねばならね。成し遂げなければならぬ仕事があるのだから……。」

これは小説ではない。プリンストン神学大学院(プリンストン大学の神学大学院と考えていい)のジェームズ・チャールズワース(James H.Charlesworth)が、Authentic Apocrypha (1998)という小さな本に書いている一節であるが、古代の写本の(この場合は引き写しではなく)創作者のある夜のことを想像しての話である。

これは聖書正典以外の話である。しかし、今話題にしているチェスター・ベアティ聖書写本のパピルス紙を見るとき、2000年近くも前に真新しいパピルス紙の上で一心に筆をとる筆記者の姿を我々も思い浮かべないであろうか。またそれは、ネット上でこのように書いていることとも、何か共通するものがあるのだろうか。

チェスター・ベアティ聖書写本の頃(2世紀−4世紀)までには、一般に新約聖書の正典化(現在の27書)は完成していないと考えられている。アーマンともいうイーアマンが言うようにさまざまなユダヤ教徒の文書やグノーシス教徒などの文書と共に、クリスチャンの間でも正典外の諸書が読まれている時代だったからだ。(ここではグノーシス派もキリスト教徒の一派であったという議論は取らない。)

日本語でいう、第二正典(旧約続編)とか、アポクリファ(これの外典という日本語訳はまずい)、偽書等についてはしばしば書いてきたはずだが、これからもそのつどこのブログで書いていこう。(外典という日本語訳は、ハーヴァードのケスター博士の主張する non-canonical というもっと広い意味の術語の訳に使うべきだ。)

うーん。Non-canonical には「非正典」という訳も可能か。しかし、Apocrypha に「『外』典」というのは少なくともおかしい。