Comments by Dr Marks

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イーディッシュ文学「僕は父なし子だからラッキー」後編

申し訳ない。これは事情により転載禁止です。

わが家の隣人、デブのペッシーおばさんは、僕にほれちゃったらしい。彼女は母ちゃんのところに来て、母ちゃんを悩ませてやまない。僕を彼女の家に引き取って暮らさせるというのだ。
「どうして私があなたを困らせてるって言うの。私はすでに十二人のまかないをしてるのよ。あの子はそこにもう一人というだけじゃない」などとねばるのだ。そのとき母ちゃんは、すんでのところで承諾するところだったが、エリフ兄さんが、「誰があいつを監視してカデーシュの勤めを守らせるんだ」と口をはさんだ。
「私が見届けます。それでいいかしら」とペッシーおばさんが答えた。

ペッシーは金持ちの女ではない。夫は製本師で、モイシェという名だ。彼はきわめて腕の立つ職人だが、腕利きだけでは十分ではない。幸運てものも備わってなきゃいけない。いや、これはペッシーおばさん自身が母ちゃんに言ったことなんだ。だけど母ちゃんは、さらに一歩先に進んで、「たとえ不幸者でも、そう、シュリマズル(貧乏神に取り付かれた者の意味)のようでも、幸運はほしいわね」と言った。母ちゃんは、そう言って、僕をその見本のように指差した。さあ、ここなる我は父なし子なり・・・かくして、皆が我を求めん。何人かの人は、僕をいつまでも養うと言ってくれたが、母ちゃんは生きてる限り誰にも渡さないなどと息巻いて、挙句に泣き出す始末だ。後で、母ちゃんは兄ちゃんに相談した。

「あんたはどう思う。ペッシーんちに預けちゃうかね。」
今や兄ちゃんは、おおかた大人になっていた。そうでなかったら、母ちゃんが相談するわけもない。兄ちゃんは、まるですでにあごひげがあるかのように、片手であごをなでている。ふん、大人のまねがしたいのさ。
そして、「行かせてあげましょう。シェイゲッツ(異邦人の子という意味)のようにならない限りいいでしょう」と言った。

そうして僕は、シェイゲッツにならない限り、しばらくの間ペッシーおばさんの家で暮らせる話がまとまった。ところで、シェイゲッツとは、そもそも何か知ってるかい。(読者は異邦人の子、すなわちユダヤ教を信じない者の子供という意味は知っている。以下は主人公の定義。)例えばだ、猫のしっぽに紙を巻きつけて、猫に際限なくしっぽの紙を追いかけさせてぐるぐる回りさせる奴。そんなのをシェイゲッツというのさ。キリスト教会の司祭館に行って、周りの塀をぼっきれでかんかんかんとたたいて歩き、思いっきり騒音を立てる奴。そんなのがシェイゲッツ。水売りのコルクの栓を引っこ抜いて、水を半分も流してしまう奴。それがシェイゲッツ。
「この野郎、お前が父なし子でなかったら、ただじゃおかないぞ」と水売り屋のレイブケがどなっている。「こんちくしょう、そうでなかったら、お前の骨という骨を折ってやるところだ。そうすりゃ、思い知るだろうに。」
ああ、そりゃ知ってるよ、まったくそのとおり。しかし、今は手出しができないことも承知の助さ。だって、僕は父のない子だもん。

そんなわけで、僕は父なし子だからラッキーだった。

わが家の隣人ペッシーおばさんは大嘘こいた。彼女が養うのは彼女を入れて十二人のはずだった。しかし、僕が数えてみると、僕は十四人目じゃないか。めくらのボルーフおじさんを数え忘れたに違いない。たぶん、おじさんは年寄りだし食べ物をかめる歯もないから、おばさんは数えなかったのだ。このことについては議論はしないことにした。確かに、おじさんはかめないのだから。もっとも、いくらおじさんでも、飲み込むすべは知っている。彼はあひるのように飲み込んで、手が届くかぎり手当たり次第に食べ物をつかんだ。しかし、そこでは誰もが真っ先に食い物をつかみとる。僕もそうした。すると、奴らは僕に飛びかかった。テーブルの下では、誰もが僕をけとばす。一番強くけとばす奴は、「たんこぶ」だ。「たんこぶ」は手に負えない子供だ。彼の本当の名前はヘルシェルだが、額にこぶがあるので「たんこぶ」と呼ばれていた。この家の誰もがあだ名を持っていた。

どのあだ名もそれぞれ理由があるので、覚えるのは簡単だ。ピニーが「大だる」というのは、彼が丸くて太っているからだ。ハイムは粗野で毛むくじゃらだから「野牛」。メンデルの鼻がツンと突き出ているので「とんがり鼻」。フェイテルはどもりなので、自分の名前さえ「ペテリリ」としか言えないので、「ペテリリ」がそのまま名前。ベレルは溶かした鳥の脂に浸したパンを食べても、いつでも満足せずに「もっとくれ!」というから、「もっとくれ」が名前。*1つまり、この家の誰もがあだ名をもっている。メス猫さえも・・・かわいそうな生き物なのに。メス猫が、家の誰にどんな悪さをしたと言うのだ。それなのにあだ名をつけられている。会堂守の妻の名「フェイガレア」が、メス猫の名だ。わけを知りたいか。メス猫は太ってる。会堂守の妻フェイガレアも太ってるんだ。こいつらガキどもが、いくどとなくこの猫に人間の名を浴びせかけながらたたきのめしたか、あなた方は想像もできまい。しかし、八つ当たりしてたたいても始まらない。いったん誰かにあだ名がついたならば、その名はひっついて離れない。

僕にもあだ名はある。何だと思う・・・「唇のモットゥエル」。あいつらは僕の唇が嫌いらしい。奴らが言うには、僕はものを食べているときに唇でいつも音を立てるという。だが、食事のときに唇の音を立てない者がいるなら会ってみたいもんだ。僕は、敏感で傷つきやすいなんてことを自慢にするような輩の仲間じゃないが、このあだ名だけは、はっきり言って我慢ならない。あいつらが四六時中そいつで僕をからかい呼びすてにするのは、単純に言って断じて許せない。止めさせようとしたが、何をしてもむだだった。初めは「唇のモットゥエル」、次に「クチビル」、終いには、ただの「クッチー」になってしまった。

「クッチー、どこをうろついてたんだ」とか、
「クッチー、鼻ふけよ」てな具合だ。

そう言われると、最初はイライラし、次に癇(かん)にさわるようになる。とうとう僕は泣き出す。それを見たあいつらの父親、つまり製本師のモイシェは、僕に「お前は何で泣いてんだ」と聞くはめになる。
僕は「これが泣かずにいられますか。僕の名前はモットゥエルなのに、クッチーって呼んで、はやすんだ」と答えてやる。
すると、モイシェは「いったいそれは誰か」と聞くので、今度は「たんこぶ」だよと答えてやる。

この父親は子供の「たんこぶ」をたたきに行くが、「たんこぶ」は「たんこぶ」で、俺じゃねえ、弟の「大だる」だと言う。更に、「大だる」は、下の「野牛」だと言う。
そんな具合に一番下まで行った。最初のガキが次のガキのせいにし、次のガキはその次のガキというわけだ。終いには、一番下のガキが一番上のガキを訴えるから、際限のない堂々巡りだ。とうとう堪忍(かんにん)袋の緒が切れた親父は、全員を寝転ばしておいて、祈祷書の革の表紙で、一人一人にしっかりと鞭打ちを食らわした。

「腕白小僧め!」製本師モイシェは声を張り上げる。「父なし子をからかったらどうなるか教えてやる! 悪魔がお前らをことごとく連れて行くんだ!」
そんなふうに事は進む。誰もが僕を擁護し、誰もが僕の味方となる。

そんなわけで、僕は父なし子だからラッキーだった。(完)

*1:この部分に手元のポルトガル語版は他の子供の名前が出てくるが、イーディッシュ原本をまだ確認していないので、それまで補筆はしない。ただし、長男ヘルシェルのあだ名の意味は英訳に説明がないのでポルトガル語訳の説明から補筆した。