Comments by Dr Marks

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みなしご、孤児、父なし子(日本語の意味と聖書の訳語など)

福音系プロテスタント教会がよく利用する『新改訳聖書』(日本聖書刊行会)という日本語訳聖書の哀歌5章3節は、このように訳されている。「私たちは父親のないみなしごとなり、私たちの母はやもめになりました。」

えっ、何だ、「みなしご」かと思ったら母親がいるじゃん。そう、「みなしご」という日本語を使うからおかしく感じる。しかし、本来、広辞苑によれば、「みなしご」とは身無子、すなわち身内を無(亡)くした子であり、身内がまったく無い子ということではない。しかし、日本語の語感としては、「みなしご」は身内のいない子と取られかねないかもしれない。

「孤児」もそうだ。字面から身寄りのない天涯孤独の身と感じるかもしれないが、よい辞典なら、両親または片親(とくに父親)を亡くした子供とあって、片親が残っていても「孤児」である。ここから、聖書の同じ箇所を『新共同訳聖書』(日本聖書協会)は、「みなしご」ではなく、「父はなく、わたしたちは孤児となり/母はやもめとなった。」と訳している。

さて、ヘブル語原文はどうか。「みなしご」または「孤児」に相当する言葉は、ヤトームという単語の複数形(それゆえ、「私は」ではなく「私たちは」になるのだが)ヤトミームが使われている。そして、「父がない」という説明句が続く。実際、ヤトームとは、「みなしご」や「孤児」と同じで、第一義的には傷つくことから守る者、とくに父親を失った者ではあるが、母親あるいは両親を失った者にも使うとヘブル語の辞書にはある。それゆえヤトミームだけでは不十分で、父のない子と説明句を加えたのであろう。

ショローム・アレイヘムの小説で、私が「父のない子」とした英訳は orphan であり、ポルトガル語の訳はórfãoである。いずれもギリシア語のオルファノスという言葉に由来する。原義はbereaved 奪われた者(近親を奪われた遺族)という意味で、近親は親と限ったわけではない。しかし、通常は親を亡くした子供、とくに両親のない子のことである。したがって、英語の orphan においても、「父のない子 fatherless child」のことをとくに思い浮かべる人は少ないだろう。

私が「父なし子」と訳したわけは、単純に「みなしご」あるいは「孤児」とした場合(英語の orphanも同様だが)、天涯孤独を思い浮かべられると、母親が生きている状況に奇異の念をいだくおそれがあると思ったからである。ただ、簡単に「父(ちち)なし子」と読んでほしかったのだが「父(てて)なし子」と読む方もいるかもしれない。これだと私生児のイメージが加算されるかもしれない。

私が「父なし子」と訳したせいで、父がないということは、この作品の中で何か特別な背景がユダヤ人社会にあるのかもしれないと疑問に思われた方も少なくなかろう。疑問は、もっともである。しかし、ことさら特別なことはないと思う。とくに昔の社会では、「みなしご」「孤児」「orphan」「オルファノス」「ヤトーム」は、天涯孤独とは限らなかった。天涯孤独ならもちろんのこと、やはり父親を亡くすことは社会的に、いや単純に食って生きていくうえで辛いものがある。だから、聖書には、孤児ややもめに救いの手を差し伸べなければならないと、随所に勧めがあるのである。

共同社会において、そのような助け合いの気持ちは、ユダヤ人社会に限らなかったはずである。しかし、この作品に戻れば、カデーシュを1年間唱えなければならない主人公は、学校にも行かず、もちろん働くこともできず、一途に朝晩唱えるのである。なまけものの主人公とすれば、それはそれで好都合だ。母親と、まだ本当の大人にはなっていない兄の家にいても、たぶん、思うようには食わせてもらえなかったろう。しかし、これも幸運で、隣家に引き取られる。まさに、ラッキーなのだ。

主人公は、相当にずる賢いところがあって、やることなすこと笑わせてはくれるが、心のうちはどうであったろうか。夜中に食う物もないような実家より、腕のいい職人として働く父親のいる隣家はいいだろうが、隣家の10人の実の子供たちは、突然の飛び入りで食べる物も少なくなれば、居候の主人公に意地悪する気持ちにもなるのかもしれない。いやしい音を立てて食っているとの嫌味も言いたくなるのだろう。そんなまっただ中に、この主人公は生きていた。

彼のカデーシュの詠唱が皆の心を打ったとすれば、父親への鎮魂の言葉が生きていたわけであり、子供が亡き父を慕うという、この主人公の本当の胸の内が現れていたのかもしれない。カデーシュの内容とは大略次のようなものである。

「我が父はユダヤ人として生き、ユダヤ人として生きるがゆえに、神の御名をあがめて生きることに心をくだいた。それゆえ、私もその父に習い、会堂で神の御名をあがめて生きることを決意しよう。日々の生活の中で、御名をあがめて生きることを。」

最後に変な話を。このカデーシュというのは、古代からのユダヤ人の習慣ではなく、アシュケナージ(北欧・東欧の白いユダヤ人)、とくにドイツ在住のユダヤ人の間で中世に始まり、今では多くのユダヤ人が習慣にしているものだ。1年間と書いたが、実際は11か月で止める。そして、1月近く休んで、命日にまた唱える。その後は、命日だけでいい。

理由がふるっている。悪人は12か月地獄を体験してから救われることになっている。もし、12か月一杯にカデーシュを唱えたら、父親は悪人と息子が思ったことになってしまうからだ。なお、息子のいない人のカデーシュは誰か親族がする。カデーシュの間は、この主人公のようにあらゆる義務から解放され、カデーシュに専念する。