Comments by Dr Marks

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学問と言語あるいはディレッタントと専門家の違い(Twitter でもごまかせるくらい短い呟き的ブログ記事)雑感的雑感

ホントか嘘かわからないので実名は書かないが、アラビア語ができないのにアラブ地域を専門とする日本の大学教授という話題に接して考えてみた。なんでも、この人の場合、翻訳といっても(これさえ業績と主張しているのかどうかはしらないが)重訳だそうだ。研究領域の言語ができない大学教授(=専門家)は諸外国ではあまり例はないと思う。

確かに日本では大学が乱立した頃、いろいろな現場の人が(例えば典型的なのが、東大卒、学士号のみ)大学教授になった時代があった。その人たちは今でも定年に達していない限り大学教授をしているのだろう。軽い読み物本を書いて著書とかいってね。いくら日本でも、その頃の大学院を出ていれば外国語の二つか三つは、流暢とはいえなくてもかまわないが、ある程度の読解能力はあったはずだ。しかし、そのような能力さえない大学教授が二流三流大学用に多く生まれた。

もちろん、言語など当該の専門分野に無関係であれば、日本語だけでもいいだろうし、英語が読めればお釣りがくるようなケースもある。しかし、ある地域の専門家がその地域の言語に通じていないというのは、学問の世界では致命的だろう。表面をなぞる報道マンとか趣味ならまだしも、原資料にアクセスできなければ自力で知見を獲得することは不可能だ。

普通、教えるだけなら専門家でなくてもできる。今なら、極端な話、ウィキペディアだけで学部レベルなら授業を組むことも器用な人なら可能だろう。しかし、本来の「教授する」こととは、その先生でなければ知らないことを教えることであった。サラリーマン教授になって給料をもらい、いい気分になっていればいい人には、できないことかもしれない。

さて、アメリカはそろそろ年度の終わりだよ。今週や来週、あるいは再来週あたりが最終講義になるのだろうな。そして、長い夏が始まる。夏が始まるといろいろ考える。多くの人文系の先生は、長い時間学生時代語学に費やした後、それぞれの分野に乗り出した人だ。辛くて辛くて、何でこんなん外国語ばかり、時間の無駄じゃん、とその頃は思っていたが、実はまだまだ未熟なのに気づくのもこの季節。

え〜と、イーディッシュもちゃんとやらなきゃな。先日、図書館で未整理のイーディッシュの本の中から借り出すとき、司書が読めなくて、この本はこちらでしょうかと、「尊敬の眼差し」で言われたが、一瞬、実は自信がなくてたじろいだ。ちゃんとしなきゃ。でなきゃ、いつまでも重訳だし。

L.A.はイーディッシュの先生を見つけることはそれほど困難ではない。しかし、年々少なくなってはいるようだ。UCLAで長く教えていた先生も、もうエメリタスになっていたから退職したのだ(64歳で退職?)。後任はいるのかいないのか、今度聞いてみよう。