Comments by Dr Marks

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人間の自由意志はあるかないか? あるよ。なければ生きていけないだろ。(ポーラの本『アウグスティヌスとユダヤ人たち』に触発されて)

前日紹介のこの本のEpilogue(結びの言葉)の key quotation(最初に飾られた象徴的引用文)はユダヤ教文書の『ピルケイ・アヴォット(פרקי אבות‎)』からのものだ。この本は普通ローマ字では Pirkei Avot と翻字される。しかし、最後の t は本当は th と翻字するのがよいのだが、英語の th とかギリシア語の θ のように発音されたくないので t としている。余談ながら(今まで全部余談だが)、ポーランド系イーッディッシュ語では、もろに s と発音する。つまり、アヴォットではなくアヴォス。

ところで、アヴォットの意味は「父祖たちの」で問題はないが、ピルケイの訳語は腐るほどある。ポーラのこの本では「倫理」と訳している(Ethics of the Fathers)。直訳としては、書かれたものの「章(複数)」とか「文集」あるいは「語録」であるから、それらの訳も目にすることはあろう。だからといって、「倫理」がトンデモ訳ということではない。単なる意味・内容からの意訳である。つまり、社会生活での指針や道徳を扱っている文書ということだ。

ここからの引用が「すべてのことがあらかじめわかっているのだから、人には選択の自由がある」(Pirkei Avot 3.15)であり、エピローグ全体のテーマとなっている。どうやら、ユダヤの先人はそのように考えていたらしい。この文の前段が問題といえば問題で、現代人ならそこに食い下がるのだろう。

アウグスティヌスも『恩寵と自由意志論』の初めのほうで、「わかっていて悪いことをするのは罪である」あるいは「知らずにしたのであれば罪はない」というようなことを、パウロのローマ人への手紙(1:18−20)を引用したところで述べている。この書物でアウグスティヌスは恩寵(神からの恵み)と自由意志(自由に選択する人間の能力)を対比させているが、現代人は決定論と自由意志を対比させて論じたがる。

もちろん恩寵に神の「予定」が含まれているとすれば、現代的な「決定」論との対比はあながち間違いとは言い切れない。しかし、決定論を原理的に単純化してしまうと、決定論を取る限り自由意志はみじんもないことになる。従って、人の生き方も生涯も自分の意識の外の出来事で善も悪もなく、一切「自分」の責任とは関係がないことになる。

しかし、そのような決定論者でも必ずしも無政府的な行動に結びつかないのは社会的な規制力の存在を意識するからだ。ここにおいては、「知らずにしたことに罪はない」ということは基本的には通らない。現代の法治国家では、知っていても知らなくても「法に定められたことに違反したら罪」なのであって、その法の存在を(あるいは解釈を)違反者が知っているかどうかが問題なのではない。

ただ、そのように法や社会を考えたとしても機械的なあるいは素朴な決定論は機能しない。選択の幅が規制によって狭められているといっても決定されているわけではなく、模索的にであっても自己保存あるいは正当化のために意志を働かせるのである。

これ以上の議論はやめよう。実はあまり意味がないのだ。ゲームでもするように議論することが議論の目的であれば、好きな人がやればいい。私は嫌いだ。そんなことで短い人生を無駄にはしたくない。(ただし、神学史、哲学史倫理学史、法理学史、法制史、等々で学問的に問題にするのは、学問を人生としている人のすることだから意味はあるだろう。)

人に自由意志がないのなら、死んだほうがましになる。人には自由意志があるから生きている。むしろ、決定に苦慮する自由の大きさに驚く。自分にとっては大きな自由が、神が定めた予定・決定の中ではいかに小さく、人間には知らされていないものだとしても、その予定・決定は、今を具体的に生きる私には何の関係もない。そのことを恩寵の存在ととるかどうかも自由である。