Comments by Dr Marks

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No. 8.

Q仮説資料における歴史性の欠如(ペテロがどこにもいない、というより・・・)

歴史性(historicity)というものは、歴史的な事実の背景に歴史的な意味が重なって真実味(plausibility)が認識されたもののことである。この定義は、余が論文等で主張してきたことであるが、考えてみれば余のオリジナルというわけでもない。ただ、ここで注意していただきたいのは、全史に横断する歴史的な意味などありえない。軽薄な歴史学は、そのような理論や主義を求めるが、そのようなものは存在しないのである。だから、「意味」は個々の「歴史的な」意味でしかないことになる。

さて、Q 資料(Q material)だが、もともと仮説(hypothesis)であるから、この仮説を擁護するものの数ほど仮説もあるということになる。主な復元表(reconstruction)は、ストリーター(Burnett Hillman Streeter, 1874-1937)、シュルツ(Siegfried Schulz, 1936-2002)、IQP(International Q Project)などであるが、あのテイバーという低能みたいな奴もネットで自分のものを宣伝していたりする(http://religiousstudies.uncc.edu/people/jtabor/Qluke.html)。

ネットで見ることのできる表を一つ(http://www.earlychristianwritings.com/q-contents.html)。記述のごとく、学者により違うのではあるが、内容的に共通することで有名なのはイエスの復活はもちろん受難記事が含まれないことである。しかし、これは受難記事の基本的なベースがマルコ伝であることを考慮すると当然なことだ。

そのほかにもいろいろあるが、ペテロが基本的に出てこないのだよ。このことは意外に知られていないかもしれない。ペテロどころか十二使徒なんて出てこないのだ。まあ、十二使徒はともかく、イエスがなんだかんだ話している歴史的な背景にペテロやその他の弟子がいないのかよ。

人間が何かに関心を持ったときに、つまり、例えばだ、イエスという人物に興味を持ったときに、歴史的な背景や事実に目を向けないのであろうか。向ければ当然ながら弟子たちとの交流が出てくるはずだ。福音書に示されたようにだ。もっとも、非歴史的なこと没歴史大好きの人もいるように、古代のメンタリティーがそうでなかったと言われればそれまでだが、福音書がしたように、ペテロ等との交流におけるイエスの言葉という歴史性が、むしろ自然だったのではなかろうか。

それゆえ福音書が残り、Qは滅んだとも言えるが、嘘ぴょーん。Qなどもともと存在しなかったのだよ。