Comments by Dr Marks

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 第1章 ここからではあそこまで行けない

 バリー・ラヴァティー、つまり、インターンの年季が明けたばかりで学位記のインクも乾ききらない、新米のバリー・ラヴァティー医師は、道端に自分のおんぼろのフォルクスワーゲン・ビートルを停車して、助手席の上に広げた地図を調べた。シックス・ロード・エンズ〔訳注一〕の場所は、容易にわかった。昆虫が飛び散ったフロントガラスを透かして前方を見つめた。すぐ目の前の一つの道が他の道に繋がる細い田舎道の迷路から察するに、ブラックソーンの生垣のある脇道の一つが行き止まるどこかに、バリーバックルボーの村がある。だが、どの道を辿ればいいのか。それは、単なる地理上の問題どころの話でないことに気づいた。
 ベルファストクイーンズ大学の医学部を卒業したクラスメイトのほとんどは、自分の将来の職業的な見通しはちゃんと立てている。しかし、彼には当てもない。総合内科医になるのか、専門医になるのか。もし、専門医を目指すとしても、どの診療科なのか。バリーは、我ながらあきれて肩をすくめた。二十四歳、独身、責任を取る家族もない。もっとも、いつも自分なりの医学の未来について考えていたことは確かだが、今は五時の約束に遅れてしまったなら、とりあえずのお先は真っ暗だろうし、生涯進むべき方向を見出すのも重要なことではあろうが、差し迫って必要なことは、何よりも車のローンを払い終えるだけは稼ぐことであった。
 地図をにらみつけて、ベルファストから旅してきた道をなぞってみたら、シックス・ロード・エンズは地図の端に寄ったところにある。そのためかバリーバックルボーの村はない。さあ、どうする?
 ふと顔を上げた、その動作のせいでバックミラーに自分の姿がちらりと見えた。青い目が、つるりと髭の剃り上がった卵型の顔の向こうから自分を見返している。ネクタイが斜めだ。どんなに注意深く結んでみても、結び目はいつも片方の襟の端に潜り込んでくれる。大事なのは第一印象であることはわかるから、だらしなく見られたくはない。ネクタイを力まかせに本来あるべきところに引っ張って、金髪の頭のてっぺんの巻き目にある逆毛立ちも引き下ろして平らにしようとしてみた。お手上げだ。元の木阿弥で、思うようにならない。そうだ、美人コンテストに行くわけじゃない、吟味されるのは医師としての資格じゃないか。ビートルズのような流行の音楽バンドにかぶれた髪型ではない髪の毛は、少なくとも短くカットしてある。
 地図への最後の一瞥が、否応なく、目的地到達への手立てのなさを確信させた。思うに、たぶん交差点なら道路標識があるんじゃないか。車を降りたら、スプリングが軋んだ音を立てた。ブランヒルダ、愛車の名前だが、世俗の荷物の重みに文句を言っている。スーツケースが二つ。貧弱な洋服収納袋付のものと医学書がびっしり詰まったものだ。それと医者用のカバンはボンネットの中に隠してあり、フライ・フィッシングの釣り竿と釣籠(びく)、それに胴長靴(ゴムズボン)をバックシートに寝かしてある。思うに、どう見ても医者の資格がある者には見えないだろうが、うまく行けば財政事情はすぐに好転する・・・もっとも、バリーバックルボー村に辿り着けさえすればの話だが。〔訳注二〕
 車のドアに伸しかかってみたのは、背丈が五フィート八インチのちょっとひ弱な体躯では愛車ブランヒルダの丸屋根の上から覗くのはやっとの高さだと意識したからだが、爪先立ってみても道路標識らしきものの姿は見えない。おそらく、生垣に隠れている。
 交差点まで歩いて行って、辺りを見回すと、道路標識は役に立たないとんでもないものだった。思うに、バリーバックルボー村の道路標識は、たぶんブリガドゥーン物語のようなもので、数百年に一度しか真っ当な姿を現わさないのだろう。こうなったら「グロッカモーラ村はお達者か」をハミングしながら、神様にお願いして、小人の一人にでも出てきてもらって道案内をお願いするほうがましだ。〔訳注三〕
 道路の両側にある、小さな畑から来るハリエニシダの香りを吸いながら、アルスター地方の午後の温もりの中を車を置いたところまで戻った。その時、夏の大気の中で、生垣に自生して花が紫色と緋色にしだれて咲くフクシアの木に隠れたブラックバードの、水のせせらぎのような鳴き声を聞いた。どこかの牛が、ブラックバードの高音に呼応して、低音でうなった。〔訳注四〕
 しばし、バリーは至福の時を味わった。未来の彼の身に何が起こるかは不確定ながらも、一つだけは確かだった。今まで彼は、どこだっていい、本当にどこだって人は住めるということを納得することができなかった。しかし、今の彼なら、北アイルランドのここ以外ならどこにでも住むつもりになれる。
 地図もなく、道路標識もなく、人もほとんどいないと、車に戻るときに感じた。だから、ともかくも行くべき道を一つ選ばなければと思ったその時に・・・小高い丘を登り道に沿って悠然とペダルをこぐ、自転車にまたがった男を発見して驚喜した。
 「すみません。」バリーは、自転車の男がやってくる道に飛び出した。「すみません。」自転車の男はよろめいて、ブレーキをかけ、片方の足を地面に置き、もう片方の足をペダルに置いたまま立ち止まった。一瞬、バリーはレプラコーンに遭遇したいという望みがかなったのかと驚いた。「こんにちは」と彼は言った。〔訳注五〕
 バリーは、のっぽの若者に話しかけた。その自転車の若者の邪気のない顔は、地元でパディ・ハットと呼んでいるツイード製の鳥打帽に半分隠れてはいるが、バリーの見立てでは、北アイルランド全六州のすべての野ウサギの羨望の的になりそうな二枚の前歯を包み隠すにはとうてい無理であった。彼は肩に熊手を担ぎ、襟のないシャツに黒の毛糸で編んだチョッキを着ていた。彼のツイードのズボンは、膝のところで地元ではニッキー・タムと呼んでいる革紐で結ばれている。
 「なんぼいい天気だが」と、彼が言った。
 「本当にいい天気ですね。」
 「んだ、んだ、いい天気だ。干し草にはよがっぺ、打ってつけだぁね。」若者は鼻をほじくった。
 「ちょっと助けてもらいたいんだが。」
 「はっ?」自転車の若者は帽子を持ち上げて赤毛の頭をかいている。
 「なんだべ。」
 「バリーバックルボー村を探してるんですよ。」
 「バリーバックルボー?」彼は眉をしかめると頭をいっそう激しくかきだした。
 「どう行ったらいいのか教えてもらえませんか。」
 「バリーバックルボー」と繰り返して、彼は唇をへの字に結んでから「おったまげだじゃ、そんたらとんでもねぇどご・・・行ぐのけ?」と聞いた。
 バリーはなるべく若者の腹立ちが本格的にならないように気遣って言った。
 「ええ、間違いなくそこなんですが、五時までに着かなければならないもので。」
 「五時? 今日の五時か?」
 「んっ」と、バリーは言葉を詰まらせてから、「いや、西暦二〇〇〇年までならいいですよ」と言った。
 若者は、着ていたチョッキの時計入れポケットをまさぐって、不器用に懐中時計を出すと、それをじっと見て、「五時? もう時間がねえべ」と、不機嫌な顔でつぶやいた。
 「わかってます、わかってます。ただ、道さえ・・・。」
 「バリーバックルボーだべ?」
 「ええ、どうでしょうか?」
 「わがった」、若者は前方にまっすぐ伸びた道を指さして「ほんだら、この道を行げや」と言った。
 「あれですか?」
 「んだ。おめの鼻先ばウィリー・ジョン・マッコーブレーの赤色の納屋に行き着くまで、そっちさ向げどげ。」
 「赤い納屋ですね。わかりました。」
 「そんどぎ、そごで納屋のほうに曲がっちゃだめなんだ。」
 「ほう。」
 「絶対だぞ。そごの右側を進め。野っ原に白黒まだらの牝牛がいるはずだ。ウィリー・ジョンが赤色の納屋でそいつの乳をしぼってるんでなげればな。そごん着いだら、牝牛の脇を通り抜げで、こんだ右の道を行げや」と言いながら、若者は道路の左側を指さした。
 バリーはちょっと混乱した。「えーと、白黒まだらの牝牛の後は右なんですね?」
 「そう牝牛だ」と言いながら、相変わらず左を指さしている。「そっから先は、ほんのちょっとだ。ところで、あんた・・・」と言いさして、「・・・おらが、おめえなら、こったらどごろがらバリーバックルボーなんかに、まんず行がね」と、彼は錆びた自転車に再びまたがると、ありがたい祈りを捧げる神父のおごそかさで、残りの言葉を締めくくった。
 バリーは、じっと相方を見つめた。若者の顔は、少なくとも真剣以外の何ものをも示してはいなかった。
 「ありがとう」と、バリーは礼を述べながら、笑顔を作ろうと努力はしてみても、ひきつってしまった。「本当にありがとう。ああ、ところで、そこのお医者さんをご存知ないだろうか。」
 若者の眉が吊り上がった。目を大きく見開き、話す前に低いトーンの長い息を吐き出した。「彼か? オライリー先生か? たまげた。知ってるだよ、あんた。心底から知ってるだ」と言い終わるや否や、自転車に飛び乗り一目散にペダルをこいで立ち去った。
 バリーは愛車ブランヒルダに乗り込んだが、オライリー先生の名を出しただけで、なにゆえ道案内人が突然に逃げ去るのか不思議だった。
 やれやれ、ともかくもウィリー・ジョンの牝牛が右の野原にいてくれるなら、すぐに見つけられるだろう、と彼は考えた。そもそも五時の約束とは、誰あろうフィンガル・フラッアティーオライリー先生に他ならなかったのだ。
  
 

〔訳注一〕北アイルランドに実際ある有名な六差路Six Road Ends。
〔訳注二〕フォルクスワーゲンのいわゆるカブトムシは、エンジンが後部で前のボンネットを開けるとトランクルームになっている。