Comments by Dr Marks

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 第2章 人間、いとも簡単に空を飛ぶ

 F・F・オライリー医師(内科医学士、外科医学士、産科医学士)〔訳注一〕
         診療科目:内科および外科
       診療時間:月〜金、午前九時〜正午


 バリーは、三階建ての家の壁に打ち付けられている、緑に塗られた玄関扉の脇の真鋳の板に書かれた三行の案内を読んだ。時計を見てみると、ウィリー・ジョン・マッコーブレーの白黒まだらの牝牛のお恵みで、五分の余裕で到着できた。新品の医者の黒い革カバンを握りしめると、ちょっと後ずさってから辺りを見回した。
 玄関口の両サイドには、灰色の小石を塗り込めた壁から、出窓が弓型に張り出していた。右手には、ガラス窓越しに、食堂の家具がはっきりと見えた。それゆえ、バリーは、田舎の一般開業医の多くがそうなように、オライリー医師は自宅で開業しているに違いないと思った。そして、もしもお定まりのようならば、左手の窓の閉じられたカーテンの陰から声高で命令口調の男の声が聞こえてきたら、医者は中にいて仕事中なのだ。
 「おい、シェーマス・ガルヴィン、お前は阿呆だ。生まれ変わりの無駄口たたき、能無しで盛りのついた途方もねぇ金玉野郎。なんてぇ男だ!」
 バリーには、その罵詈雑言に対する反応は聞こえなかった。家の中で壁にドアが打ちつけられた音がする。彼は一歩下がると、肩越しに振り返って、道に沿ってバラの茂みがある正面入り口から続く砂利を敷いた歩道に目をやった。すると、前方に動くものを感知したので顔を前に戻したら、目の前には、大男、実に大きな男が、玄関口に股を大きく開いて立っていた。人食い鬼のように曲がった鼻は白くて石膏づくりのようでありながら、顔の他の部分は紫がかった暗褐色だった。バリーが思うに、おそらく鬼は、上着の襟と厚手の生地のズボンの尻をつかんで小さな男を引っさげて力んでいたからだろう。小さな男は、じたばたもがきながら甲高い声でわめいていたが、振り回している左足を見るとまったくの裸足だった。
 大きな男は小さな男を、振り幅を徐々に増やしながら前後に振り回してから手を離した。小さな犠牲者の上空への飛翔と悲しみの叫びは、どちらも近くのバラの茂みへの急降下で中断するのを、バリーは口を大きく開けて見ていた。
 「このおたんこなす」と、大男は唸り声を上げると、靴と靴下を追い出された男に向かって放り投げた。
 バリーは縮み上がった。そして、黒の革カバンをしっかりと抱きしめた。
 「この次はな、いいかシェーマス・ガルヴィン、小汚い糞野郎、・・・この次、診療時間外の午後にここに来やがって、俺に貴様の痛む足首を診てくれと頼むんなら、その糞足を洗ってからにしろ! こらっ、聞いてんのかシェーマス・ガルヴィーン?」
 バリーはきびすを返し、退散にかかろうとしたが、逃げていくガルヴィンが行く手の道をふさいでいる。ガルヴィンは靴をつかみ、よろよろと門に向いながら小さな声で答えた。「はい、オライリー先生様、おっしゃるとおりにいたしますです、オライリー先生様。」
 バリーは、バリーバックルボーへの道を教えてくれた自転車の若者がオライリー医師の名前を出しただけで逃げて行ったことを思い出した。なんてことだ、バリーが今目撃したようなことが、その男の臨床態度なら・・・。
 「で、いったいあんたは何でそこに突っ立っているのかね、脚の長さほどあるラーガンくわの面下げてるあんただよ。」〔訳注二〕
 バリーは、振り返って、そう詰問する人を見た。
 「オライリー先生でらっしゃいますか。」
 「いや、違う。大天使、血みどろのガブリエル様だ。看板が読めないのかね?」彼は壁の板を指さした。
 「私はラヴァティーでございます。」
 「ラヴァティー? なら、帰ってくれ。俺は何も買わん。」
 バリーは何とか応対してもらいたかったが取りつく島もない。「私は医者のラヴァティーです。ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに載った求人広告に応募した者です。見習い医師としての採用面接を受けることになったのですが。」私は絶対にこのいじめっ子に脅されてなるものかと決心した。
 「ああ、あのラヴァーティーか。やれやれ、あんた、いったい何でそれを先に言わんかね。」オライリーは、スープ皿ほどある大きい手を差し伸べた。彼の握手は、自動車をスーツケースのサイズに縮めてしまうような圧縮機の一種と言ったとしても、大袈裟ではないと判断されるだろう。
 バリーは、指の関節がつぶれる感覚を味わったものの、見つめるオライリー医師のまなこは尻込みせずに見返した。彼の、もじゃもじゃの眉に隠れた茶色の深くくぼんだ両の目を、しっかりと見つめたのだ。目の周りに笑いじわがあるのがわかったし、石膏づくりのような白さは鼻から消えていて、その鼻ははっきりと左向きに曲がった大きな天狗鼻であるのを見た。最後に、その鼻の周りの頬を見ると、想定どおりの紫がかった暗褐色であった。
 バリーの手へ圧力がやっととけた。
 「ラヴァティー君、入んなさい。」そう言ってオライリーは道を空けると、バリーが薄っぺらなじゅうたんを敷いた玄関ホールに進むのを待った。「左手の部屋だよ。」
 バリーは、たった今のガルヴィン放り出し事件をいぶかりながらも、カーテンの閉じられた部屋に入って行った。蓋を巻き上げたままのロールトップ・デスクが一方の緑の壁に向かって置かれていた。処方箋や書類、それに患者の病歴カルテらしきものの山が、見事に雑然と机上に置かれている。その机の上方の壁には、釘に掛けられて額に入ったオライリーの学位記がぶら下がっていた。バリーはちらっと盗み見た。≪トリニティー・カレッジ、ダブリン、一九三六年≫と読める。机の前には、肘掛付きの回転イスと肘掛のない簡単な木製のイスがあった。
 「まあ、掛けたまえ。」そう言って、オライリーは回転イスのほうに大きな体を沈めた。
 バリーも座り、膝にカバンを置いて、辺りに目をやった。検診用寝台と間仕切り屏風が、机とは別の壁に向かって据えられた医療器具収納棚と一緒になってひしめいている。埃をかぶった血圧計が壁に固定されていて、その上には視力表が斜めに掛かっていた。
 オライリー先生は、曲がった鼻に半月型の眼鏡を掛けるとバリーを見つめた。「じゃあ、君がここで働いてくれるわけかね?」
 バリーは元々そのつもりでいたのだが、シェーマス・ガルヴィン追い出し事件を目撃してからは、自信を持ってそうとは言えなくなった。
 「ええ、まあ私は・・・。」
 「もちろん働いてもらうよ」と、オライリー上着のポケットからブライアー・パイプを取り出して火のついたマッチをパイプの火皿にかざした。「若者にとって絶好の機会だからね。」
 バリーは、イスの上で、体が前方に滑べって行くのに気付いた。元に戻そうと思ったが簡単にはいかず、じゅうたんをしっかりと踏みつけて、背筋をピンと立て続けていなければならなかった。
 オライリーは、人差し指を左右に振っている。「ここバリーバックルボーでの医療は、この世で最もやりがいのある仕事だ。好きになるぞ。いずれ君を診療所の共同経営者にしてしまうかもしれん。もちろん、仕事に慣れるまでしばらくの間は、君は私の指示に従って医療に従事するわけだが。」
 バリーはイスの上で身を立て直すと、即断することにした。仕事をさせてもらえるならばここで働いてもいい。しかし彼は感づいた、いや、はっきりと悟った。今すぐ自分の独立性を確立しなければ、オライリー先生に何もかも支配されてしまう、と。
 「ということは、私は、先生の指示でバラの茂みに患者を放り投げさせられるということでしょうか。」
 「何だって?」石膏のような白さが僅かながら大男の鼻によみがえってきた。さては癇癪の兆しか? バリーは戸惑った。
 「私が聞いたのは、バラの茂みに・・・。」
 「そんな質問は初めて聞いたよ、お若いの。まあ、聞きなさい、あんたは田舎の患者を診たことはあるかね。」
 「いえ、ちゃんとしたものとしては・・・。」
 「そうだと思ったよ」、とオライリーは言って、英国郵船クイーン・メリー号が、ボイラーを開いたときに煙突から出す蒸気のようなタバコの煙を一吹き吐き出しながら、「まあ、これからいっぱい学ぶさ。」
 バリーは、左のふくらはぎがつってくるのを感じた。体をイスの奥に押し込み直す。「それは承知しています。けれども、医者が患者を投げ出していいとは・・・思いません。」
 「くだらん」、立ち上がりながらオライリーが言った。「君は、私がガルヴィンをバラの中に投げつけるのを見た。教訓その一。決して、決して、決して」、オライリーは「決して」を一つ言うたびに、パイプの吸い口をバリーに突き付けて、「決して、患者を付け上がらせてはならない。そんなことを許していたら、君は疲れ切ってぼろぼろになるぞ。」
 「しかし、人間を力にまかせて庭に放り投げるというのはちょっと・・・。」
 「私も初めはそう思ったさ、シェーマス・ガルヴィンに会うまではね。君も仕事に就いて、私のように、ああいう物臭野郎と付き合うようになれば・・・」と、言いながらオライリーはいまいましそうに頭を抱えた。
 バリーも立ち上がって、脚の後部をマッサージした。彼はガルヴィンについての論争を続行するつもりでいたが、オライリーは大きなしわがれたがらがら声で笑い出した。
 「脚がつったな?」
 「はい、どうもこのイスの具合がよくないようです。」
 オライリーの含み笑いがだんだん大きくなった。「違う、そうじゃない。直したばかりだよ。」
 「直した?」
 「やあ、いかにも。バリーバックルボー村の輩には、気分が悪いとか歩ける程度のケガ人のくせに、ここに受診したら、牛が牛舎に帰ってくるまで、つまり日が暮れるまでだな、彼らの嘆き悲しみを聞いてやるのが私の義務だと思っているようだ。田舎の一般開業医というのは、つまり田舎で単独で医業を行うというのは、そういうのに時間をさくことではないんだ。」彼はずり下がった鼻眼鏡を上に押し上げた。「そのために応援の医師募集の広告をだしたんだよ。ここではとんでもない仕事が多すぎるんだ。」オライリーから笑顔がすでに消えていた。次の言葉を静かに言ったとき、彼の茶色の目は、バリーの目をしっかりと見据えていた。「働いてくれ、お若いの。助けが必要なんだ。」
 バリーは躊躇した。自分は本当に、大きな口にパイプを差し込んで目の前に座っているこの粗野な大男の許で働きたいんだろうか。バリーは、オライリーの血色のいい頬と、ボクシングのリング上で潰れたに違いないカリフラワー状の耳と、わら束の山が下手くそに積まれたような黒髪の重なりを見て、ちょっと遊んでみることにした。「じゃあ、このイスに何をしたんですか。」
 オライリーの顔に笑みがこぼれたが、バリーにすれば鬼神のようとしか言えない笑みだった。「調節したのさ。前の脚を一インチばかり切ってね。」
 「えっ、今何と?」
 「前の脚を一インチ切り落としたんだよ。座り心地があまり良くはないのかね。」
 「良くありません」と、バリーはイスに体を押し上げながら言った。
 「あまり長くは座っていたくない。そうだろう?」
 バリーは、長くも何も、そもそもここに座ってさえいたくないと思った。
 「患者だって同じさ。来たらすぐ帰る。ヴァイオリン弾きの肘の動きのように素早くね。」
 人間を流れ作業のベルトに載せて医療をしていたら、果たして病歴さえ聞き取れないのがまともな医者ではないのか。そう、バリーは自問して、立ち上がった。「ここで働くのがいいのかどうか、よくわかりません・・・。」
 オライリーの笑い声が部屋中に殷々と轟いた。「そんなに真剣に考えるな、お若いの。」
 バリーは、襟もとから自分の怒りが真っ赤に立ち上るのを感じた。「オライリー先生、私はですね・・・。」
 「ラヴァティー君、ここには本当に我々の助けが必要な病人がいることは、察しがつくと思う。」オライリーは、真顔になっていた。
 バリーは、オライリーの「我々」という言葉に驚くとともに、なぜか喜ばしくもあった。
 「私は、君が必要なんだよ。」
 「ええ、そのことは・・・。」
 「よかった」と言って、オライリーはパイプにもう一度火を付けながら立ち上がってドア口に進んだ。「来たまえ、君は手術は経験してきただろう・・・アメリカでは同業者が何ゆえ診療の場を上品に≪オフィス≫などと呼ぶのか私には解せない・・・これから別の仕事場をお見せしよう。」
 「でも、私は・・・。」
 「カバンはそこに置きたまえ。医療カバンが必要なのは明日からだ。」そう言い終わると、オライリーはバリーを部屋に残したまま玄関ホールに消えた。選択の余地はない。カバンを残して付いていった。ホールをはさんだ反対側に直にダイニングルームが見えたが、オライリーはホールに沿ってさっさと歩くと、華やかなマホガニーの手すりの付いた階段の脇を通り越した。それから、ある扉の前に立ち止まって、勢いよく開いた。バリーは急いで後を追う。
 「待合室だ。」
 バリーが見たのは、壁紙のバラ柄が醜く描かれた大きな部屋だった。壁面に沿ってたくさんの木製のイスがある。部屋の中央にテーブルが一つあって、古い雑誌が山積みになっていた。
 オライリーは、その部屋の奥の壁にあるドアを指さした。「患者は自分たちでここまで来させる。我々は、あの診察室から出てきて、次の番を待つ病人なら誰であれ連れて行く。中で治療し終わったら、玄関口を指さして出て行かせる。」
 「自分の足で立てさえすればですね。」バリーは、オライリーの鼻を見つめた。鼻の白みは出ていない。大男は含み笑いをした。「君は薄らボケではないんだろう、ラヴァティー君?」
 バリーは、しばし黙して、オライリーが続けて語る答を待つことにした。「正しいやり方なんだよ・・・暇つぶしにあちこち具合が悪くなるのを止めさせることができるし、あの人と同じ薬をくれだのと人まねの要求をして薬漬けになるのを防ぐことができる。そうは思わんかね。」彼は、向きを変えると階段のほうに戻った。「付いてきてくれ。」
 バリーは、彼に従って一連の階段を上り、広い踊り場に出た。額に納められた軍艦の写真が壁に掛かっている。
 「居間があっちにある。」オライリーは、観音開きになっている羽目板のドアを指し示した。
 バリーはそれにうなずいたが、目は軍艦に更に近づいていた。「すみません、オライリー先生、これは英国戦艦ウォースパイト号ですか。」
 オライリーの足が二連目の階段の一段目に掛かって立ち止まった。
 「どうしてわかった?」
 「父が同じ船に乗っていました。」
 「まさか・・・ラヴァティーか? 君は、・・・トム・ラヴァティーの息子か?」
 「はい。」
 「たまげた。」
 バリーもたまげたと思った。彼の父はめったに戦時の体験のことは話さなかったが、ときおり英国地中海艦隊のウェルター級ボクシング・チャンピオンだった海上軍医中佐に触れることがあった。なるほど、オライリーのカリフラワー状の耳と曲がった鼻は、それを物語っているわけだ。父親の見立てによると、オライリーは最高水準の海上医務官であった。まさか、この男が?
 「たまげた。ラヴァティー君の息子なんだ。」オライリーは右手を差し出した。今度の握手はしっかりしていたが押しつぶす感じはない。「君こそ打ってつけだ。週給三十五ポンド、毎週日曜のほかに隔週で土曜日も休み、宿舎に食事付きだ。」
 「三十五ポンド?」〔訳注三〕
 「部屋を見せてあげよう。」

      * * *

 「何を飲むかね?」オライリーは、カットグラスのデキャンターやグラスが並んでいるサイドボードに立ち止った。
 「シェリー酒を少しお願いします。」バリーは大きな肘掛けイスに座った。オライリーの二階の居間は気持ちの良い調度品が揃っていた。狩猟の鳥を描いたミリケンの水彩画〔訳注四〕が三枚、大きな暖炉の上方の壁を飾っている。壁の二面は、床面から天井に達する書棚で隠れている。バリーは素早く本の標題を読み取って値踏みした。プラトンの『国家論』、シーザーの『ガリア戦記』、更に『クマのプーさん』とそのラテン語訳〔訳注五〕から、サマセット・モームグレアム・グリーンジョン・スタインベックアーネスト・ヘミングウェイ、更にはレスリー・チャータリスの「聖人」物にまで至る。要するに、オライリーの読書趣味は多岐にわたるということだ。
 フィリップ社のブラック・ボックス蓄音機の脇に無秩序に並べられたレコード・コレクションは、同様に折衷主義と言える。ベートーヴェン交響曲の三十三と三分の一回転のLPが、ジャズのビックス・バイダーベックジェリー・ロール・モートンの七十八回転のSPとごちゃ混ぜになっているかと思うと、ビートルズの最新のLPも一緒になっているというあんばいだ。
 「さあ、どうぞ」とオライリーはバリーにグラスを差し出すと、別の肘掛けイスに深々と腰を下ろし、がっしりしたブーツを履いた足をコーヒー・テーブルの上にどんと乗せた。それからグラスを空けたのだが、なみなみと注がれたアイリッシュ・ウィスキーでもなければ火消の役には立たない一杯のように、バリーには思えた。オライリーは、「私はあまりシェリー酒は飲まないんだ」と言ってから、「まあ、人の好みは自由だが」と付け足した。
 「ウィスキーには少しばかり早い時間かなと思ったものですから。」
 「早いって?」、もう一杯ぐいっと飲んでから、オライリーが言った。「真っ当な飲み物に早すぎるはないだろう。」
 やばいぞ、オライリーの血色のいい頬をより間近で見ながら、バリーは思った。まさか、底なしの飲兵衛か。
 オライリーは、明らかにバリーが詮索していることには気づかず、大きなガラス窓を顎でしゃくった。「外を眺めてみるかね?」
 バリーは、オライリーの家から通りを渡ったところにある苔むして斜めになった教会の尖塔の先を見た。バリーバックルボー村の大通りに、連なった長屋の屋根を見下ろすことができ、浜辺の砂丘の向こうには、ヤグルマギクのような青い空に抗して霞んだ、遥か遠くのアントリム州と、ここダウン州の境となっている紺碧の色と白い波頭のベルファスト湾が見えた。〔訳注六〕
 「はは、どうだ」、オライリーは、「君はランベック太鼓を二本のバチで叩いても、この景観を打ち負かすことは無理だろう」と、勝ち誇った。〔訳注七〕
 「素晴らしい、オライリー先生。」
 「フィンガルだよ、バリー君。フィンガルだ。オスカーがくっつく。」オライリーの笑顔はまるで甥を見つめる伯父だった。
 「オスカー、えーと、そしてフィンガルですか?」
 「違う。オスカー・フィンガルじゃない。ワイルドだ。」
 「オスカー・フィンガル・ワイルドで、フィンガルですか?」バリーは、話を見失っていると感じた。オライリーの鼻に、はや白みがかる兆しの現われるのを見た。
 「オスカー・・・フィンガル・・・オフラッアティー・・・ウィルズ・・・ワイルド。」
 バリーは、その名前の羅列に節を付けたら歌えるようになりますね、と言いたい衝動を押し殺した。
 「混乱しているようだな、バリー君。」
 混乱、混迷、当惑、まるでわからない。
 鼻から青白さが消えた。「私は彼に因んで名づけられた。オスカー・ワイルドに因んで。」
 「えっ。」
 「そうだよ、父が古典学者でね。これを長くて言いにくい変な名前だと思うなら、私の弟のラーズ・ポーセナ・オライリーに会ってみてごらんよ。」
 「参った、マコーリーですか?」
 「まさに、そ奴さ。『古代ローマの詩歌』だよ。」〔訳注八〕オライリーは、口いっぱいの酒を飲み込んだ。「我々田舎の医者はまったくの教養なしばかりではない。」 
 バリーは恥ずかしくなってきた。向かいに座っている大男の初めの印象は、完全には正確と言えなかった。頭を垂れて、バリーは自分のシェリー酒をすすった。
 「それで、ラヴァティー先生」、バリーの居心地の悪さなどお構いなくオライリーが言った。「どうなのかね? ここで働く気はあるの?」
 バリーが返事する前に、階下のどこからかベルが鳴った。
 「糞っ」、オライリーが言い放つ。「患者が来たようだ、一緒に来てくれ。」彼が立ち上がったので、バリーも従った。
 オライリーが玄関を開ける。シェーマス・ガルヴィンが上がりがまちに立っている。両の手に生きたロブスターを抱えていた。「今晩は、先生様」と、オライリーに獲物を突き出しながら挨拶した。「足を洗ってめいりやした、洗ったです。」
 バリーは、『マイ・フェア・レディー』で、薄汚い下町娘のイライザ・ドーリトルがヒギンズ教授に「おら、来る前に、手も顔も洗ってきただよ」言っているのを思い出した。
 「本当に洗ったんだな?」と、オライリーは厳しい口調で言って、もがいている生き物をバリーに手渡した。「お前の足首を診てやるから入んなさい。」
 「ありがとうございます、先生様。ほんとにありがとさんです。」ガルヴィンは、バリーを見て一瞬いぶかしみ、「こちらのご立派な青年はどちら様で?」と尋ねた。
 バリーは、甲殻類のがちゃがちゃと動くハサミを避けるのに気を取られて、オライリーの返答を聞きそこねるところだった。「こちらはラヴァティー先生だ。これから一緒に診療するお医者様だ。この先生には、明日から診療所内のことを説明するつもりでいる。」


 

〔訳注一〕日本の現在の医師が医学部を出ただけでは医学士(MB)であって正確には米国等におけるような医務博士(MD)ではないように、昔の英国の医者も「医学士」だった。例えば、ベルファスト大学の学位は、内科の医学士がMB、外科がBCh、産科がBAOである。オライリー医師の肩書はこれらに対応する三つを取得していることになる。
 なお、現在の日本の医学士も本来は修業年限からすれば(日本は高卒後六年だから)MBなのだが、慣例で英語で表す場合は、米国のようにMD(米国は八年)と称してもよいことになっている。なお、MDの上の研究者学位である医学博士は日米ともPhD(in medicine / medical science)と称する。
〔訳注二〕Lurgan spade (細長いくわ=スコップ)のような馬面は北アイルランド人の好きな表現。ボーっとして生気のない状態を指すのであって実際の長い顔のことではない。
〔訳注三〕一九六〇年代末の英国の労働者の平均週給は三十ポンドほどであったから、宿舎・食事付きで新任とはいえども医者の給料として三十五ポンドは期待外れであったろう。
〔訳注四〕おそらく一九二〇年生まれのアイルランド人水彩画家Robert W. Milliken の作品。
〔訳注五〕『クマのプーさん』(初出一九二六年)は各国語に訳されたが一九五八年にラテン語訳まで出版された。一九六〇年にはニューヨークタイムズのベストセラーにも載ったが、ラテン語のベストセラー図書紹介としては今のところ初めで最後。
〔訳注六〕オライリー医師の二階の居間の大窓は、地名と見通しからすると北に向いていることがわかる。便宜上、「ベルファスト湾」と訳したのはBelfast Lough。Lough(ロッホと発音)は通常なら湖あるいは波打ち際の意味であり、ベルファスト・ロッホは狭義には大きな入り江に沿った広い浅瀬の部分(湾岸部)を差し、湾そのものではないが、アイリッシュ海からベルファスト港に向かう湾(実際「湾bay」というよりは「入り江inlet」)そのものも一般にベルファス・ロッホと呼ばれている。
〔訳注七〕Lambeck drumは北アイルランドの大太鼓で行進用に使われる。胸の上に縦に抱えて左右から叩く。
〔訳注八〕Thomas Babington Macaulay(一八〇〇〜一八五九)は、『古代ローマの詩歌(Lays of Ancient Rome)』の作者。ローマに対抗するエトルリアの王ラーズ・ポーセナ(Lars Porsena)が登場する叙事詩オスカー・ワイルドのフルネームは、Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde。