Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

ピルケ・アボスとは俺のことかとピルケィ・アボート言い

砂漠の町から帰ってきた。今朝はトドさんから、興味深いコメントをいただいた。出掛ける前で、十分なレスポンスができなかったので、小話の形にしてレスに代えたいと思う。何だ、そんなことを言って、またお得意の片仮名表記論か、つまらん。

まあまあ読者の皆さん、コメントの内容に関わることは、これからサラとハガルの確執の物語で触れる予定なれど、標題のことは標題のことで意味はあるのじゃよ。少なくともトドさんは、喜んでくれると期待している。

まあ、このおちゃらけブログも、それなりの一貫性は取っていると思っているし、過去の記事との関連も、必要があれば注意を喚起するようにするつもりだ。

シリーズ『聖書のおんな』では、今後は面倒なので新共同訳聖書からの引用は一々断らないことにする。それ以外の日本語訳の場合だけ、Dr. Marks 私訳を含めて注記することにする。それに伴い、注意して欲しいことがある。章番号と節番号が旧約聖書では先行の口語訳聖書と一部違うことだ。普通は、違う箇所の場合、そのことも一々断らなければならないが、断らないことにする。従って、とくに示すことがなければ、章と節もすべて新共同訳と了解いただきたい。

小谷野先生の求めに応じて長谷川三千子氏のファンタスティックな著書について意見を述べたことがある。その際、長谷川氏は Claus Westermann の註解書に頼っていることも指摘した。彼女がこれを使いこなしているとはとても思えないが、一応、彼女の種本であった。私も創世記に登場する女を記述する際は Westermann には目を通すことにしている。彼の著作はすでに古くはなっているものの、1970年代までの比較的豊富な基本的研究書・研究論文が中立の立場で紹介されているからだ。

私の種明かしとして申し上げれば、Westermann 後の註解書としては、主に Gordon J. Wenham と Victor P. Hamilton を参考にしている。旧約は専門ではないので、せいぜいこの程度じゃ、許せ。ただし、私はこれらを鵜呑みにはせず、自分で疑問があれば(幸いにして、ほとんどの一次資料に当たれる環境にいるので)元に当たるくらいのことはするつもりだ。

元に当たるということで、やっと標題のトドさん紹介の「ピルケ・アボス」に話は至る。私は日本で神学教育や聖書学を修めたことはなく、日本語の関連書も幾分持っているだけであり、日本語資料にはなかなか当たることができない。そこで、ときどき片仮名表記などでとまどうことがある。

「ピルケ・アボス」? はてな? うん、「ピルケィ・アボート」かな? 偽典? 旧約偽典? 確かに、日本聖書学研究所編で旧約偽典シリーズに「ピルケ・アボス」があるではないか! Pirqe Abothのことか! 英文字で書けばそうだが、普通はこれをヘブル語(פרקי אבות)読みするから「ピルケィ・アボート」と発音する。しかも、普通はこれをいい加減な名称の旧約偽典などとは言わず、ミシュナーに関する小論(道徳書)と特定している。

いや、トドさんがそう言っているのではないのだ。その責任は日本聖書学研究所だ。幸いにしてトドさんはその中の1章5節を引用してくださったので、私が考えているものと一緒のものであることは確認できた。同所を日本語に全訳してみると「ヨセ・ベン・ヨハナンは語った。汝の家を広く開放せよ。そして、困窮する者は汝の家中に加えよ。しかし、女と長く語らってはならぬ。」となる。

Aboth(父たち)という字を英語読みすると th なのでアボス。えっ、まさか? 私は、その日本語訳とやらに当たれないので確信はない。でも、まさかね。実は、もう一つの可能性がある。Aboth ならヘブル語だからアボートしかありえないのだが、もしイーディッシュ(ヘブル語とドイツ語などヨーロッパ諸語とのちゃんぽん語)ならば、Avos(いつも言うようにヘブル語のB/Vはあいまい)アヴォスなのだ。これならアボスと表記してもよい。しかも、アクセント位置が変わるのでアボースと伸ばさなくてもいいのだ。

かくして、ピルケィ・アボートはピルケ・アボスとなる。めでたし、めでたし。なお、ピルケィはピルキィという者もいるくらいだから、ピルケでもいいはず。(しかし、言っておくが、ピルケ・アボスが一般的なのは日本だけだよ。セイラ・ペイリンの表記と同じで、最初の訳者の役割って大事だな。これからはせめてピルケ・アボートと言ってほしい。そうすれば国際的に通用するよ。できればピルケィ・アボートかなあ。)