Comments by Dr Marks

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日本人町ってどこさ(日本人は南へ、ユダヤ人は西へ、おまけはコリアタウン)、おっと、メリー・クリスマスね!

参考のための地図はこちらで→http://travel.yahoo.com/p-map-191501884-map_of_los_angeles_ca-i
余が日本人町というときはロスアンジェルスダウンタウンの小東京(Little Tokyo)に限る。しかし、実際はこの町には日本人は少なく、日本人町らしいところはここではなくなっている。例えば、日本式のスーパーや日本式の店に行きたければ、ガーディーナ(Gardena)、トーレンス(Torrance)、コスタ・メッサ(Costa Mesa)に行ったほうがよい。こちらのほうがむしろ日本人町だろう。日系米人ではなく日本人そのものがいるのだ。えーと、断っておく、ロスアンジェルスをロスと言うのは日本人、LA(エル・エイ)と言うのが日系人ロスアンジェルス国際空港LAXをラックスと言うのが日本人、エル・エイ・エックスと言うのが日系人

もっとも、小東京の店は日本人以外の者が買い取ったりしていても、いまだに高齢者(日系の高齢者住宅が多い)や観光客(日本人の観光客だけではなくアメリカ各地からの観光客)を相手の商売が生きているので、余などは日本食を求めて行くとすれば、余の家から近いこの小東京か、後述するウェスト・ロスアンジェルスになる。ガーディーナやトーレンスには年に一、二回程度、コスタ・メッサなどは5年に一度程度だ。

今述べたウェスト・ロスアンジェルス(Sawtelle 通りなど)などにも小さな日本人町はあるし、東のモントレイ・パーク(Monterey Park)にもあるから日本人は南北だけでなく、東西にも広がっているのではあるが規模は小さい。とくに東の場合、支那人朝鮮人の社会と混じり合っている。東西の日本人は、どちらかといえば日系人である。日本人一世が時を経て二世三世を残すようになると日系人になるわけだ。(戦後、1960年代以降渡米して土着=帰化した者を新一世といい、米国生まれだが日本で教育を受けて帰国した二世を帰米二世という。いずれも米国籍。)

現在の日系米人の親や祖父母たちは、サリナス、フレズノサンノゼ、オックスナード、ヴィクタヴィル、リヴァサイドなどの地方で農業に従事していた者を除けば、ダウンタウンの北のパッサディーナ(Pasadena)や東のボイル・ハイツ(Boyle Heights)あるいは東ハリウッド(Vergil 通りの辺り)から現在のコリアタウン(Koreatown)に多く住んでいた。そして、その頃の日系人の中心地がダウンタウンにある小東京であった。(1942年の強制退去命令で日系人ロスアンジェルスから3年近く追い出されるが、元の家には他人が勝手に住んでいるということも多かった。)

第二次世界大戦後の日系企業などは、派遣社員宅や社屋をこれらの日系人が集まるところに置いた。余の親族が日本総領事の顧問弁護士をしていた頃(1987?)までは領事館は小東京の鹿島ビルにあったが、今は変なところに移ってしまった。古くから日本人(と日系人)がいたところには今でも宗教施設があったりするので往時を偲ぶことはできる。しかし、日本人学校のような教育施設は、日本人の移動に伴って北から南に移動している。

ダウンタウンの南のクレンショー(Crenshaw)地域からガーディーナは元は日本人の耕作する農業地帯であり、それが日本人町に成長したのではあるが、今ではコリアタウンから溢れた朝鮮人(分からず屋のために言うが、南北に拘わらず朝鮮民族朝鮮人という)の町に変わりつつある。もっとも日本人町に来る朝鮮人には在日朝鮮人で日本語が達者な人が多いし、食文化などは日本人と変わらない。(ついでに面白いことを言うと、彼らの多くは朝鮮語もできるが、日本語の5種の母音の影響のため、本来の7種の朝鮮語の母音を聞き分けることができない。)

更に南はサウス・ベイ(South Bay)とも称されるトーレンス地区になる。多分、ここは今でもなお最大の日本人町と言えるのは、大手の日本企業が本拠を置いているからだ。しかし、最近は、更に南のコスタ・メッサの日本人町が隆盛なのは、ニューポート・ビーチ(Newport Beach)やアーヴァイン(Irvine)にある日系企業が増えているからである。例えば、今でも小東京には日本書店が一店舗(紀伊國屋書店)あるが、狭くて余の買うような本は見当たらない。トーレンスかコスタ・メッサに行けばあるそうだが、コスタ・メッサなど行ったこともない。日本の本を買うならアマゾン日本に限る。

さて、ダウンタウンから東に、素敵な橋が(昔は映画でよく使われた)架かったロスアンジェルス川を越えて行けば、ボイル・ハイツ(Boyle Heights)という町がある。ここはアイルランド系といわれるボイル(Andrew Boyle)が1850年頃に開いた町だが、間もなくユダヤ人、ロシア人、日本人が住むようになった。彼らの宗教施設や墓場もできた。売ってしまったらしいが余のところも家があったらしい。墓場はまだあるし、確か一人か二人の余地はあるはずだが、死ぬのはまだ先と調べてもいない。(いずれにしてもうんと郊外に新しく買うことになるかな。誰も墓参りになど来ないのだからうんと遠くでいいんだよな。安いし。)

ところが彼らは次第にいずれも西に移動した。1940年頃にはユダヤ人はフェアファックス(Fairfax)地区に、ロシア人も西に向かい(今、ウェスト・ハリウッドにいるのは新一世のロシア人)、日本人は1942年の強制収容で打撃を受けた。とはいいながら、余はあの辺りに20世紀末頃まで日系の印刷所(小規模町工場)などがあったことを記憶している。今ではほぼ完璧にラティーノ、とくにメキシカンの町になってしまった。何よりも象徴的なのは、西に伸びる大きな街道でブルックリン通り(Brooklyn Avenue)というのがあったのだが、口惜しくも1994年にラティーノ労働運動家の名前に変えられてしまった。新しい通りの名前は大嫌いじゃ。大嫌いだから言いたくないが、今ではそれで言わなければわからないので言う。馬鹿のチャヴェス(Chavez)様通りじゃ。

このフェアファックスのユダヤ人街だが、主として今では正統派の町だ。多くのユダヤ人は、金持ちならビヴァリー・ヒルズとかブレントウッド(Brentwood)、サンタ・モニカのほうまで西に移動し、金はないけど正統派なんかやってらんねーというユダヤ人は更に遠い(サンタ・モニカの先は太平洋だが、少し北西にそれて)エンシノ(Encino)辺りの小ぢんまりした家に住む。フェアファックスの正統派ユダヤ人街だが、東の端はハンコック・パーク(Hancock Park、ここに園遊会もできる規模の日本総領事公邸もある)、西の端はだらだらとウェストLA の辺りまで続くが、主なる正統派の宗教施設のある通りはビヴァリー通り、ピコ(Pico)通り、ラ・ブレア(La Brea)通りであって、ウィルシャー(Wilshire)通りは正統派じゃない大きなシナゴーグが並ぶ。

えーと、おまけのコリアタウンか。もう面倒になった。要するに、朝鮮戦争の後、1965年の東アジア(主として朝鮮人)からの移民制限撤廃からこの町に集まったのね。それまでは日本人が多かったから、日本語が使える世代の人は気が楽だったのかもしれない。今は在日朝鮮人が来る。

この町はヘンリー・ウィルシャー1880年代に開き、ハリウッドのベッドタウンであったこともある。1920年代にはチャップリンも住んでいた。しかし、1950年代からは車で郊外から来るのが流行り、映画人も白人もこの町から出払ったところに朝鮮人が大挙して住みだしたわけだ。因みに、土地の広いカリフォルニアはエーカー当たりの人口密度は普通低いのだが、このコリアタウンはダントツに人口密度が高く、8 km平方に12万人が暮らすそうだ。