Comments by Dr Marks

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比較宗教学というものがなぜ面白くないか

客観性がないから。哲学に無知な比較宗教学者あるいは宗教史家というものは、信仰から離れて宗教を研究することが客観性だと勘違いしている。主観性とか客観性とかの区別は、一切から切り離された形では存在しないのだ。

私は「空の墓伝承」に取り組んだ頃、戦後の独英語圏学者を中心にしたにしろフランス語圏を含めた19世紀からの主たる聖書学者あるいは神学者のこの問題に関する態度を個々に調べたことがある。この伝承に(この伝承とは、イエスが復活して墓が空になった、ということそのものではない)なんらかの史的信憑性(そのような騒ぎが実在した可能性がある)を信じて研究した場合と信じないで研究した場合では、結果(結論)が大きく隔たることを議論したときに、査読者にさんざん懲らしめられてしまった。動機だけから結論を導くような学者がいるかってね。

そう。そんな不純な学者がいてはならない。自分の信仰は捨象して、純粋に客観的に世界の古今東西の宗教を比較検討して宗教の本質に迫るのだ。うむ、なかなかいい動機だと思う。これこそ学者の鑑。しかし、そこからは宗教の本質など見えないな。大事なことは、自分の宗教心やアメリカ人としての、日本人としての、ユダヤ人としての、あるいは自身の成長過程などの諸々の事情までを踏まえた立ち位置(Standpunkt、シュタントゥプンクトゥ)をなるべく正確に把握し記述した上でないと、方法論的に初めから破綻してしまうだろう。(自分が客観的でありうるというのは幻想にすぎない。むしろ、自分の主観性を認めたところから始まる。)

マックス・ミュラーフレイザーエリアーデみたいに宗教百科事典くらいは編纂できるだろうな。ほんで今ならウィキペディアに書き込んで楽しむこともできる。しかし、それだけだ。自分が客観的な立ち位置にいるなどと勘違いしている者に限って、その位置から解放されておらず、不自由な立ち位置にいることになる。んっ、これってハイデッガーも言っていたような気がするな。『存在と時間』ではない別のところで。今度探しておこう。あっ、週末はちょっと忙しい。

他でも書いたことがあるが、今では東大宗教学の人たちも知らないことがある。マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller)の没後に彼の遺族の希望で蔵書を一括購入したのは東京大学だ。しかし、関東大震災の図書館消失で無くなってしまった。