Comments by Dr Marks

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哲学も神学もまとめてはならない、否、まとまるはずがないから未完で発表せよ

聖書学の研究をさぼっているからということではなく、昨年の春頃から哲学や神学の本や論文を読むことが多くなった。そして、聖書学と違って、哲学や神学はまとまらないものだという確信がますます強くなった。

私は哲学出身であり、学歴的には聖書学者ではなく神学者なのだが、哲学も神学も<学問として>は嫌いだ。なぜなら、どちらも対話が成り立たないし、どちらも完結した仕事がしにくい。その点、聖書学は小刻みに自然科学の論文のようにして完結が可能だし、受け入れる受け入れないの結果はともかく議論は可能だ。

哲学や神学で完結した仕事があるとすれば、哲学史的、あるいは神学史的な仕事になってしまう。つまり一定のテーマに沿った学説史か、特定の著作の訓古学となるのが落ちである。実際、哲学や神学の名著は未完が多い。完結しているようにして出版された場合は、弟子が(講義ノートなどから)無理にまとめてしまったり、有能な(?)編集者が体裁を整えたものだ。

私が哲学を始めた動機の一つに、日本の大学の教養課程で哲学の授業を取った兄の話があった。そのとき先生は、哲学は煎餅をかじるようなものではなく、飴をなめるようなものだが、その飴はとてつもなく大きいから二順三順なめたところで少しも減らない、と言ったそうだ。

今、私ならこう付け足そう、「減らなくても甘いのはわかる」と。哲学や神学はまとめてはならない。無理にまとめると不純な苦味が混じる。哲学や神学は議論をしてはならない。自分の感じる甘さを一生懸命伝えればいいし、相手の伝える甘さにも耳を傾ければいい。そして、これは相対主義などではないし、不可知論でもない。

自分が絶対と思うものは、絶対と思って語ればいい。(おおっと、暴力は駄目だぜ。それこそ、「絶対」に駄目だ!)無理に物分りがよくなろうとすると、苦味が己に入り込んで、それこそ不可知論に至って病に罹るようになる。くわばらクワバラなんまんだぶつのオシャカサマ、ご注意あれ。