Comments by Dr Marks

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ユダヤ流、施しの仕方、あるいは恵んでやるときの巧拙、ぶっちゃけて乞食の対処法

施しというのは、啓典の民であるユダヤ教徒キリスト教徒、イスラム教徒になくてはならぬ社会生活の義務。年齢・性別・その他の違いにかかわらず、それぞれの状況に応じて何らかの行為は必要。(アイディアがちと異なるが仏教徒の布施等も同じだろう。)

例えば、ない袖は振れないから、1億円を困った人に上げなさいと言われても余は無理だ。しかし、道を歩いていて、自分の経済状況に合わせてみれば、20ドル紙幣が落ちていたら、迷わず拾って自分のポケットに入れるが、1セント銅貨や5セントが落ちていても拾わない。余よりも貧しい人のための落穂として拾ってはならないからだ。

マイモニデス(中世最大のユダヤ教思想家)が施しの巧拙を8段階に分けて書いている。一番いいのは、単に上げるだけではなく、その施しを種に自立できるように算段してあげることらしい。その後には、次善以下いくつかの例が続く。例えば、相手が恥ずかしい思いをしないようにこっそり上げるとかである。

これらは省略しよう。飛んで、5番目は求められる前に上げる。6番目は求められてはじめて上げる。7番目は(不十分であっても)親切心から上げる。最後の8番目は惜しみ惜しみ上げる。(こらっ、今笑った者よ、惜しみながらでも上げるのは偉いのだ。上げもしない者が、8番目を笑ってはいけない。)

さて、施しというのは対個人とは限らない。今どきは社会的影響が大きいからといって会社を支援したり破産した国ギリシアのようなのにも施しをする。IMFを通じて、米国市民である余の金もつぎ込まれているそうだ。Twitter仲間の専門家に教えていただいた。

最後に、またユダヤの話になるが、乞食の話で締めくくろう。ギリシアの馬鹿に施しをしても自立にも復興にも繋がらないのであれば、こんな話は笑い話でなくなるだろう。

あるユダヤ人の金持ちがいた。彼は門前に群がったり、屋敷に物乞いに来る貧乏人にひどく心が痛んでいた。彼らの窮状を見るにつけ聞くにつけ、落ち着かなくなって、とうとう執事を呼びつけた。そして、「あの貧乏人たちは心騒ぐほど気の毒でならない」と言ったので、執事は「いかほど施しを上げましょうか」と問うた。すると金持ちは、怪訝な顔をして「いや、追い払ってくれればそれでいい」と執事に命じた。

ギリシアはみんなで見捨てないか? えっ?