記憶として形として残すべきアウシュヴィッツ収容所跡(Auschwitz II-Birkenau)と広島ドーム(Hiroshima Dome)の違いと共通するところ
どうもいつものことなのだがヒロシマ・ナガサキというのは今に始まったことでもないのに、どこも同じニューズになるのだな、今時分。多分、終戦(平和条約まで正式の「終戦」ではないが)とかお盆とか日本人はまとめてイメージするのかもしれない。
しかし、特定の日だけではなく、アウシュヴィッツでは毎日人が殺されていたのだし、無差別空襲はヒロシマ・ナガサキ両市の原爆だけではなく、他の日本の都市やロンドン、欧州の諸都市で多くの非戦闘員が殺されている。その意味では、ヒロシマ・ナガサキが特別なのではない。
もちろん、ヒロシマ・ナガサキだけが直接的な原子爆弾の被害を受けた町であるから、原子爆弾という悪魔的な手段を思えば、特別でないとは言えない。特別なのである。その意味では、余も核兵器廃絶を望む。しかし、核廃絶も段階的に力のバランスを取りながら行うべきだろう。安易な銃廃止論と同じで、悪の国にだけ核兵器を持たせるようでは困る。
広島ドームは反戦のシンボルでもある。結構。その通り。誰が何と言おうと、残念ではあるが、あの原子爆弾によって戦闘は止んだ。日米に限ると、真珠湾に始まり、長崎で終わったのだ。真珠湾がなければ沖縄の戦火も広島ドームもないのであり、詩人栗原貞子ではないが、南京虐殺もマニラ虐殺もその他の蛮行は日本人がしでかしたものである。
アウシュヴィッツはどうか。まったく違う。ここでの犠牲者は、この犠牲者やこの犠牲者の政治母体が何か悪いことをしたからではない。それこそ無辜の民に対する理不尽な悪魔的犯罪だった。日本人と違って、ユダヤ人が何かしでかしたからではないのだ。この認識を異にすると、志を同じにするべき側からも嫌われるだけであろう。その認識なしに惚けたように「ヘイワ」などと言われると、少なくとも気分は悪い。
しかし、人間というものは善くもなれるが悪くもなる。意識しないと誰もが悪魔になりうるのだ。ヒロシマ・アウシュヴィッツ、いずれにしろ、己も同じ悪行をなす可能性があるという自覚がなければ、残すべき遺産としてみても意味がない。形あるものはいずれなくなる。しかし、これらの遺産がいつまで形として残るのかはわからないが、形で子供たちに教え続けるのはとても方法的に有効であるから、どちらも遺産として残し続けてほしい。
そして、ぜひ、平和、平和と連呼するだけではなく、醜い「人間」が誰の内にも住んでいることを、一年に一度ではなく、静かに毎日教え続けてほしい。自分のことは棚に上げ、この時期が日本人の第二次世界大戦に対する免罪アピールの時期となっているのではないかと、まさか勘ぐるわけではないが、世界でも稀な罰当たり(無宗教)国民の突然の声高には、いささか戸惑いざるをえないので一言申し上げた。