Comments by Dr Marks

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イエスの祖先のラハブという女は誰なんだ

素人さんはすぐに、「へっ、センセ、そんなん知らんの。ヨシュア記に出てくるエリコの商売女やんけ」と答えるだろう。うん、悔しいけど、今のところはそれで正解なんだ。しかし、すっきりしない答なんだよ。

エス系図は、福音書の中でも二つあるのはご存知だろう。そう、マタイ伝1章とルカ伝3章だ。新約聖書のとっぱじめが筒井某に「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み・・・」などと馬鹿にされる聖書の中でもくそ面白くない部分である。しかも、初めだから、もうその先など読みたくなくなるのも道理なのだ。

しかし、聖書のこんな変な箇所も聖書学者とか神学者という気違い集団は面白くて仕方がないらしい。一世紀からこのかた、飽きもせずに論じ続けている。例えば、ときどき書いているQ資料仮説の問題にしても、このマタイの系図をルカが参考にしたかどうかで、仮説が仮説でなくなるかもしれないのだ。煙に巻くようだが間違ってもらっちゃ困るよ。参考にしなかったというと仮説は仮説のままで残るが、参考にしたというと仮説そのものが本当に煙になって消えてしまうのだ。まあ、Q資料仮説など化石になるまで永遠に仮説なのかもしれん。

閑話休題。マタイにしろルカにしろ、こんな系図はあんたんちの系図と同じで嘘で固めたものだから史的に正しいなどと思ってはならない。まあ、史実らしくところどころに歴史的に実在した人物を配置して、つなぎに嘘を使ったというのが正確かもしれない。福音書系図は神学的な目的に合致するように捏造したというのが、余のような篤信のキリスト信者でも偽らざる本音だ。どうだ、がっかりしたか。

しかし、待て待て。単なる無意味な捏造なら、今日のブログの題のように、改めて疑問なんか持たないんだよ。聖書には史実もあれば虚構もある。しかし、意味ということを考えると、なかなか奥が深い。一生飽きない読み物だよ。余の場合は、先日話題にしたオースチン・ファーラーと同じで、ルカはマタイを参考にしたと思っている。えっ、まるっきり違うじゃない。あんなんでホントに参考にしたのか。

そう、まるっきり違う。どう違うか知らない人のためにいずれ書くかもしれないが今日はそこまで踏み込まない。マタイは14代×3区分=42人のつもりが、ちょんぼで数が合わないし、旧約聖書の諸々の記述に照らしても世代をかなりはしょっているから、ルカは頭にきて(←これは余の勝手な想像)77人に増やしているが基本的な数の概念や発想は同じなのだ。

さて、マタイの系図の中のいくつかの神学的なテーマの一つに、女性の登場がある。ルカは男性だけだ。イエスの母マリアさえ出てこない。もちろん、男系の社会であったからなのだが、実際はマタイが特別なのではなく、歴代誌などを見ればわかるように、女性が系図に登場しないわけではない。登場するのは4人。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻。最後のウリヤの妻とは、バト・シェバという名の女のことだ。これにイエスの母マリアが入って5人となる。

しかし、更に有名なサラ(寒い冗談に気づいてね)やリベカやラケルなどは入らない。どうしてかというと、これらの女性はユダ一族プロパーではないからだ。系図の神学的な意図の一つは、イエスがユダ一族でありダビデの家系であることの強調だから、関係する女性の名だたるものを登場させたわけである。因みに、ルツ記の末尾(4章18−22節)のダビデの家系というのをご覧あれ。

まず、ペレツとあるが、ペレツの母ちゃんがタマルだよ。次にサルマという男がいるだろう。この男はマタイ伝ではサルモンとなっている。サルモンの妻がラハブだ。どうしてそんなふうに違うかといえば、余は新共同訳日本語に基づいてカタカナ書きにしているが、サルマはマソラ・テキストといわれるヘブル語によるが、マタイは七十人訳というギリシア語によっているので日本語で読む旧約聖書とは異なることになる。(実はこれも単純でなくて、後に述べるように、個々には問題も多い。)

その子ボアズの妻がルツであり、ダビデの妻の1人が(ヒッタイト人の武将ウリアの元妻であった)バト・シェバ。これで最後のマリアを除く4人の女となる。だから、この4人の女性のさまざまな興味ある人物像の前に、「ユダの家系の流れに組み込まれた特筆すべき女性」という面が第一なのである。

もちろん「興味」は尽きない。例えば、ユダの流れに混入した異教の民の血。ラハブはカナン人だし、ルツはモアブ人であることは明らか。タマルやバト・シェバも異邦人である可能性が高い。性道徳的にはどうか。ラハブはれっきとした娼婦。タマルやルツは手練手管でそれぞれユダとボアズを誘惑している。タマルとユダ、ルツとボアズの場面などは一種の性愛小説だ。(13歳以下もブログを読んでいるので、どこにあるかは教えない。)

バト・シェバとなると、まあね、第一に悪いのは助平なダビデなのだが、人から見えるようなところで水浴していたバト・シェバもおかしい。二人は結局、不倫の関係から始まった夫婦となる。(どうもルカはこれが気に入らないようで、彼の系図ではバト・シェバの息子ソロモンではなく、多分、母が別のナタンの名を挙げている。マタイとの神学の違いかもしれない。)

これほど、ある意味では魅力ある女たちだが、社会的にみればろくでもない女たち4人に、未婚で身ごもったマリアの瑕疵など何でもないのかもしれない。これこそマタイの神学というかマタイの陰謀だ。何だかダン・ブラウンの世界だよ。策士マタイ。年代が200年ぐらい違ってもかまわなかったりするのは下手な小説家と同じだから、何事もきちんとしないと気に食わないルカのようではない。

だいたいな、ヨシュアの時代はモーセの時代の終わり(紀元前14世紀)だし、ダビデの時代(紀元前1000年前後)とルツの時代はそう違わないことを考えれば、ラハブって女は少なくとも300年くらい生きてたのか? 聖書の人物は何百年でも生きるだと! 我々はラハブがヨシュアやカレブの時代の女であることがわかっている。それなのにマタイはダビデの曾祖父ボアズの母(つまり、わずか4代前)だとしたからルカはラハブの名など出さない。

先ほども述べたように、聖書の人名はヘブル語とギリシア語ではもちろん違うのだが、それぞれの間でも微妙に違うことがある。ボアズも母ラハブにもその例が見られるから別人である可能性もあるが、マタイ伝の系図のボアズはルツの夫であることは疑いえない。ただ、ラハブは別人の可能性もある。実際、バビロニアン・タルムードのメギラー(b. Meg. 14b)という文書では、ユダーという偉いお坊さんが「ラハブはヨシュアと結婚したに違いない」と書いているが、こちらのほうが理屈や状況に合っている。

しかし、そうだとすると、ラハブがヨシュアの妻となったとして、(そして誰が妻だったとして)ヨシュアは子供に恵まれなかったかもしれない。少なくともマタイはそのことを知っている。歴代誌上の7章27節はヨシュアの下に子孫の名はなく、ヨシュアで途絶えているのだ。ヨシュア記のラハブをみれば、随分と成熟した女性であるから、また娼婦を業とした経歴から、子には恵まれなかった可能性は高い。(ただし、息子はいなかったが娘はいたという説が上記のタルムードにもある。)

もっともヨシュアはユダ族ではない(エフライム族)。鼻からマタイはヨシュアなど使えないわけだから、ラハブを別の男(ユダ族)に飛ばすしかない。飛ばされたとしても、本当にヨシュア記に出てくるエリコの町のラハブなのだろうか。それとも・・・誰なんだ。

おまけ:どうしてラハブとヨシュアは結ばれるの? だって、ほら赤い糸で・・・っていうだろう。ヨシュア記読んでみな。