Comments by Dr Marks

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実名と匿名、いやネット世界の話ではないので「名を挙げること」と「名を挙げないこと」と言ったほうがいいだろうか。いや、馬鹿の一つ覚えの福音書の話さ。

これも「共観福音書問題」の一つと言えないこともないが、この区別は「問題」解決の役には立たないしヨハネ伝も絡んでくるので全く別の話としておこう。福音書の中には重要だから名前が挙がっていることは多いにしても、かならずしもそうではなくて当惑することがある。しかも、ある福音書には名があって別にはなかったり名前が違っていたりするのだ。

前に家に来ていて行方不明となった隣家のオス猫の名前ルーファス(ルフォス)などは名前が挙がったが、裸で逃げた若者や主の愛する弟子などは名前がないゆえに大きな議題になる。また、他は名を挙げていないのに、ナルドの香油を注いだのがベタニアのマリアとしているのはヨハネ伝だけであるのは後代ほど調べがついたのかと思ってはみるが、かえって時間とともに誰であるのかわからなくなることもあるだろう。

実際、ブルトマンなどはいい加減で(余もいい加減だから人のことはあまり言えないが)、マルコ伝優先説の理由として(今のナルドの香油の女もそうだが)後になるほど詳細に人名なども出てくると言っているが、実際はマルコ伝はかなり名を挙げているケースが多いのに、マタイ伝やルカ伝は名を挙げないということも多いのだ。一つにはマルコ伝でわかりきっているからという解釈もあるがそうとは言いきれないであろう。(むしろ、それならマルコの優位性は大したものだ。)

プリミティヴなほうが名前を挙げるかもしれないと思ったこともある。極めて身近な例なのだが、余の細君は身の回りの出来事や昔のことを話すのにことさら詳細に登場人物の名を挙げる。余にとっては見たこともないしそのとき初めて聞く名前にいちいち意識を取られるよりはストーリーラインに集中してもらって登場人物はAとかBとか甲とか乙でもいいと思ったのだが、彼女はそれでは気がすまないらしい。

余は、細君があまりにもプリミティヴで話の仕方もわからないのかと思ったが、一応名の通った大学を出て大学院教育も受けているのだから、それほど馬鹿でもないし道理もわきまえている。そして思った。こりゃ、マルコ伝だわい。少なくとも話すほうとしては実名を挙げて語ってこそ場面が生き生きとしてくるし、聞くほうも甲、乙、丙、丁などとやられるよりは実名のほうが区別が付いていい。チャンチャン。