Comments by Dr Marks

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魔術師(Kishefmakher כּישעף-מאַכער)前編

           I.L. Peretz(I.L. ペレツ)作    及部泉也 訳 @2013 Izumiya Oibe 禁無断転載
 ヴォーリン[今のウクライナポーランドの接する地域]のある町に魔術師がかつてやって来たことがある。
 ユダヤ人は皆、自分の頭の髪の毛の数よりも頭を悩ますことの多い過ぎ越し祭の前の、大忙しの時期に到来したにもかかわらず、この新参者は町に大いなる衝撃を残していった。まったくのところ、彼は歩く不思議のような人物だった。ぼろを身にまとい、しわだらけだが、まだなんとか役に立つ山高帽をかぶり、神様がお与えになった、まぎれもないユダヤ人の鼻ながら、顔はキリスト教徒のようにつるつるにそっていた。旅行の身分証明書は持たないし、コーシャであろうがなかろうが食い物に手を出したのを見たことがなかった。誰も彼が何者かわからなかった。どこから来たのかと問えば「パリから」と言うし、これからどこへと問えば「ロンドンへ」と言うばかりだった。じゃ、ヴォーリンに来て何をなさってるのかねと聞けば、「ただ道に迷って来ただけだ」と答えた。彼の様子から察するに、なんと徒歩でやって来たらしい! ふだんからシナゴーグに祈りに行くことはなく、祭の前の安息日にさえ行かなかった。彼の周りに人々が寄ってくるといつの間にか地に飲み込まれたように姿が消えて、市場の向こう端に再び現れるという具合だった。
 町の滞在中に大広間を借りてマジックショーを始めた。
 で、そのマジックたるや! 観客の目の前で麺類でもすするかのように燃え盛る炭を飲み込むと、その口から今度は、赤、緑と、色とりどりなどんな色でも望みのリボンを吐き出した―ユダヤ人の放浪が続くかぎり続くかのように! 一度などは長靴の中から十六つがいの七面鳥を取り出すことさえやってみせた。七面鳥? いいや、どいつも熊ほど大きかった! 彼が靴を持ち上げて底からルーブル金貨をかきだしている間も、その大きな七面鳥はまだ舞台を走り回っており、口笛と共に焼きたてのハラーパンとロールパンが空中を羽が生えたかのように飛び回ったり輪になって床の上で踊ったりした挙句、怒ったように天井に飛び上がって張りついてしまうと、観客は「ブラヴォー!」と叫んでいた。それから、もう一度口笛が鳴ると、そのすべてが空中に霞となって消えていった。ロールパンも、ハラーパンも、七面鳥も、なにもかにも消えた。
 もちろん、悪魔やその手下ならそんな仕掛けは朝飯前であることは誰でも知っている。聖書には、パラオの魔術師が今見たことよりもすごいことをエジプトでやっていたではないか。ここでの本当の疑問は、どうしてこの乞食のような男がこんなマジックをやれるのかということだ。この男はルーブル金貨を靴底からかきだしているのに宿賃も払えずにいる! 口笛を吹くと、パン屋が焼く以上のロールパンやハラーパンが出てくるし、靴からは七面鳥が飛び出し、しかも彼自身の死人のようなやつれ顔さえ生き生きしてくるのだ! 飢餓の焼きついた彼の目は二つのかがり火のように燃えている。町の衆は言った。今年の過ぎ越しの晩餐にはマーニシタナ[晩餐で唱えられる四つの質問]が四つでなくて五つになるぞ。
 しかし、四つの質問に入る前に、われわれはこの魔術師からいったん離れ、ハイム・ヨナと彼の妻リヴケ・ベイレに目を移そうと思う。(続く)

ユダヤ的算術


この話は多少細部や登場人物の役割が異なる話があるわけだが、そのうちの一つをいつもの及部泉也氏と骨さんに監修してもらったので紹介する。

身なりのきちんとした中年の女性が一人で食事をしにレストランに入ってきて、店の主人としばらくメニューについて話し合った後、肉入りジャガイモの鍋すなわちグーラッシとパンを注文した。彼女はゆっくりとそれらを食し、満足な表情で店の主人に聞いた。
「とてもおいしかったわ。お代はいかほどかしら」
「はい、ありがとうございます。肉入りジャガイモが7グローシェン、パンも同じく7グローシェンでございます」と店の主人。すると彼女は、
「わかったわ、合わせて11グローシェンね」
「いえ、合わせて14グローシェンでございます、奥様」
「あら、変ね。11グローシェンのはずよ」
そのやりとりを聞いていた他の店の客も主人に加勢して言った。
「奥さん、そんな計算はないだろう。7と7を足せば14じゃないか。11なんて聞いたことがないね」
すると、この客の女はすました顔で11で不都合はないと説明しだした。
「私は前の結婚で4人の子をもうけました。現在の主人も自分の4人の子を連れて私と再婚し、再婚後に3人の子を産みました。今、私は7人の子供がいて彼も7人の子供がいます。でも我が家で子供の頭を数えてみると11しかありませんよ。論より証拠でしょうが」

まっ、これがユダヤ式算術だそうです。みなさまユダヤ人とお付き合いの際はご注意を。
Disclaimer: This story is not intended to insult any ethnicity.

ラビ様が踊ると云々、さてラビ様が説教すると?

いつも暗いユダヤの歌では気がめいる。たまには彼ら独特のユーモアで。歌としては簡単なものであるから訳詩というよりは歌の説明的に。

なお、言うまでもないだろうがラビはユダヤ教徒の坊主兼裁判官。なーに、裁判官といっても、よろず揉め事収拾屋、すなわち横丁のご隠居のようなもの。敬虔主義者としたのは訳として馴染みはないかもしれない。これはハシディズム運動(ハシデス、敬虔主義)に従う者たち(ハシードの複数形ハシディム)という意味だが、面倒な講釈は止めとく。知りたかったらウィキペディア博士かグーグル教授に聞いてくれ。

訳はいつもの及部泉也さん。骨さんの友達。歌はレオ・フルド(Lazarus 'Leo' Fuld :Rotterdam, October 29, 1912 – Amsterdam, June 10, 1997)。オランダのユダヤ人。

ラビ様が踊ると、敬虔主義者は皆踊る
ラビ様が眠ると、敬虔主義者は皆眠る
ラビ様が歌うと、敬虔主義者は皆歌う
ラビ様が笑うと、敬虔主義者は皆笑う

という具合に宗教に凝り固まると右へならえを皮肉った歌とも取れるが、それほど深い意味もない。ただただ彼らを温かく見守る観があるだけだ。それに楽しい。

さて、実はこのヨウツベにはないのだが、最後に次の句を付け足すことがある。すなわち、

ラビ様が話すと、敬虔主義者は皆黙る

これも二つの意味が考えられる。一つは、ラビ様はいつも皆のためになるお話をなさるから注意して皆が聞くという意味。もう一つは、ラビ様が説教を始めると、皆はつまらなくなって黙ってしまうというものだ。

小銭しか入らない大道音楽師の歌 #Yiddish Song (Klezmer)

この歌の状況は、標題のようであるとは限らない。小銭そのものの歌と言ってもいいし、なけなしのお金で大道音楽師に好きな歌をリクエストする立場の歌でもいい。

この歌も歌う人によって多少歌詞が変わるようであるが、以下の訳はこのヨウツベの通りに訳しているそうだ。他にもヨウツベはいくつもあるから比べてみるのもいい。

のんびり歌っているように聞こえるが、実はかなりの早口だ。なかなか聞き取れない。

一枚の二十五銭銅貨 (伝承歌 及部泉也訳)

さあさ、私を変えておくれ
二十五銭の銅貨から三つの銀貨に
さあさ、音楽師よ
今なら奏でてくれるね
私の好きな歌を

ヤン、チェ、ラン、チェ
ヤン、チェ、ラン、チェ
ヤン、チェ、ラン、チェ
ヤン、チェレー


さあさ、私を変えておくれ
二十五銭の銅貨から四つの銀貨に
さあさ、音楽師よ
今なら奏でてくれるね
昔と同じ歌を


さあさ、私を変えておくれ
二十五銭の銅貨から十(とお)の銀貨に
さあさ、音楽師よ
昔と同じように奏でてよ
しかし、もっと素敵に


さあさ、私を変えておくれ
二十五銭の銅貨から本物の皇帝金貨に
私は音楽師に言おう
急いじゃならない
ゆっくり奏でてと

「悲しい目」も「市場」もない子牛(ドナまたはダナ)の歌 #Yiddish Song


誰だ? Joan Baez の歌か、などと間違いの場違いの罰当たりをほざいてるのは。そう、元々はイーディッシュの歌詞だ。なお、余は一貫してイディッシュではなくイーディッシュと片仮名で表記しているが、そのほうが適切だからである。余に従うものはイーディッシュと表記すべし。

それでね。表題の話だけど、元々のイーディッシュの歌詞には、英語の歌詞にあるような悲しい目(mournful eye)も市場(market)もないんだよ。もっとも、一部の歌詞が違うものもあるのだが、それでもこれらの言葉は含まれていない。

単に「荷車の上に子牛が綱でつながれている」というだけなんだ。もちろん、「風が笑う」という言葉はあって、その対比は凄い。だからといって英訳は(英訳も一つではないが)余計な想像が多すぎるんだよ。

だったら、お前が訳してくれって? 実は辞書をガッコに忘れてきちまってな、明日取りに行ってからにするよ。いやいやいや、訳してしまっちゃ、だめさ。どんな訳も多少は裏切ることになる。

・・・えーと、最後に一つのおまけ。ほら、繰り返しの「ドナ、ドナ、ドーナ、ドーナ、ドナ、ドナ、ドーナ、ドー」ってのがあって、最後が「ドー」だろう。これな、イーディッシュなら意味があるんだ。単なる語呂合わせじゃない。子牛のドナが「ここにいる」という意味になるんだよ。

銃が安全を保障する:LA ダウンタウン日系マーケットにて


ほらっ、左上に日本語で「セール」ってあるから日系マーケットなのがわかるだろ。ロサンジェルスダウンタウン、小東京(Little Tokyo)だよ。書店その他いろいろあるこのモールで、余がエレベータを降りてふと上を見たら、たぶん銃器を持った警備員であろうか、下を見下ろしていた。

そこの日系マーケットに入ったら、日中なら前にはいなかった武装警備員がいた。どこかの女性が、やはりそのことに気づいたらしく話しかけていた。腰の拳銃は役に立つのかって。ただそれだけだから女性が銃規制反対派なのかどうかはわからなかったが、警備員がはっきりと、銃が安全を保障するとのたもうた。

確かになあ。余が隠し持つ銃は小口径だが、彼のはオープン・キャリーで大口径の軍用であることは明らかだから、誰も変な気は起こせないわな。銃が安全を保障する。なるへそ。

ほんで余は、いきなりカメラを構えて撃たれてもいけないから、その警備員に声をかけ、顔は写さないから拳銃を携帯しているところを撮らせてくれとたのんだ。その写真がこれ。ほんで、彼と話している女性にも写真を見せて、顔はないからブログOKとしてもらった。


あのね、どうせ、あの拳銃は何? なんて言うのがいるから、教えちゃる。遠目でも軍用・警察用の拳銃とわかるのだが、写真を拡大してみた。イタリアの 9ミリ弾の Beretta 92 に間違いない。古い型だから軍関係のお下がりを警備保障会社が買ったものかもしれない。

だけど、イタリアのみならずいろんな国で使われているよ。ここでもホルスターに入っていてホックで止めて落っこちないようにしているが、実は瞬時に抜けるんだ。早い人だと一秒以内に抜いて撃つから泥棒さん油断しちゃだめよ。

クリスマス・デー(25日)のユダヤ人街


一つ目の写真はユダヤ人街でもあるがわりといろんな人が集まる街のベーゲル屋。ご存知のとおり、いくら不信心の米国人でも(まあ、法定休日ということもあるが)お店は休みにする。だが、ユダヤ人の経営する飲食店などは大繁盛。店の棚の商品は昼までまだ一時間もあるというのに売り切れ状態だ。


二つ目の写真はその店の中にあった1920年ニューヨーク市内の(たぶんブルックリン)の写真。ユダヤ人の店の案内はイーディッシュとヘブル語で書いているのだが、書いているほうとしては区別しているわけではないのだろう。それに、イーディッシュといっても Wholesale とか Retail はヘブル文字で書いただけだから全体としてはヘブル語のつもりかもしれない。扱っている品を大きく書いている。本、祈祷ショール、山伏のように頭と左手に付けるティフィリン、家の玄関に付けるメズーサなどが読み取れる。

ここで朝昼兼用の食事をしてから、もう一つのユダヤ人街に行き、ユダヤ系イラン人の経営するコーシャ・マーケットで野菜や果物を買った。メキシコ人や東ヨーロッパ人の店より安くて新鮮だ。ここで、なかなか入手できなかった白胡椒を発見したので、夜は野菜と肉たっぷりのラーメンに振りかけて食べた。久しぶりの白胡椒。美味かったぞ。辛くて。あっ、おまけで昨夜(てか12時回ったから今朝)の深夜ミサの風景を付けとく。深夜で寒いから若者が多いな。