Comments by Dr Marks

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村上陽一郎先生の「ごまめのはぎしり(2008.1.8)」についてのショート・コメント

小谷野先生が村上陽一郎の名を出していたので思い出した。(村上先生以外の若い人の名前はわからん。)実は、昔このブログで東大生と東大教授について書いた記事に、先日になって突然「はてなの得点」を贈ってくださった方があり、連想で思い出してしまったのだ。

私は実は村上先生の本を読んだり、ある会合で同じテーブルでご一緒したことはあるが、授業や講演を直接拝聴したことも、テレビやラジオで聞いたこともない。たぶん、授業は上手なのであろうが、先生のホームページにある「ごまめのはぎしり」(2008.1.8)を読んで、先生の授業に対する感覚に違和感を覚えた。

東大を退官された先生は、現在、ご自宅に近いICUの教授らしいが、授業の最終日に学生が拍手するのを好まないそうだ。理由は、講義は学者としての自分が個人的な成果を吐露するところなので、抛っておいてほしいということらしい。不思議な話だ。東大系の先生にはこんなのが多い。村上先生も純粋東大であり、まともな留学経験はない。授業は独白であり、学生無視でかまわない。←んなことあるわけがない。授業は学生のためのものである。授業の場を提供してもらって自分も洞察を深める機会とさせてもらうことがあるとしても、授業は学生のためである。研究と教育の区別がついていないのだ

初めに書いたように、実際の先生の授業は素晴らしいのだろう。だから、終わりに感謝と賞賛の意を表すために学生が拍手するわけだ。何も、ICUの学生はアメリカナイズされているからといって、猿真似で拍手したわけではなかろう。アメリカだって誰でも拍手をもらえるとは限らない。授業が駄目な先生にまで拍手をするわけではない。

だから、先生の言葉とは別に、実際の授業に臨まれる意識は学生にも向いているはずである。拍手をしてもらって何が悪いのかわからない。もっとも、誰でも照れくさいことはわかる。アメリカ人だって照れくさい。しかし、学生の反応を含め、自己吟味と反省の日々を過ぎて、ああ、力一杯語ったという安堵が得られるのが、その拍手の瞬間ではないのか。(まあ、あくまでも個人のの感性ではありましょうが、お前たちなど関係ねー、という態度にとられかねませんよ、先生。)

話変わって、村上先生は確かに比較文学比較文化の出身(猫猫先生の大先輩)ですが、専門はあくまでも科学史文学に手を出していたとは驚き。あっ、それとクリスチャンであることは有名なので知ってますが、どんなクリスチャンなのかはさっぱりわからん。中世の科学と宗教の対立の記述などではキリスト教の素人ではありませんというつもりでしょうが、素人です