Comments by Dr Marks

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沈没する国、二十年後の日本人と大学教員の失職

といったって、どちらも数が減るだろうという単純な予想や、人口が減ったらその国が滅ぶとか、同時に大学の教授様の数も減るとかの予測は、必ずしも<真>ではない。

先般より「増田」こと「はてな匿名ダイアリー」を観察しているのだが、結構ためになる。現在の33歳の人口は現在の3歳児の1.8倍だそうだ。35歳では2.0倍となる。では、団塊の世代の60歳で見てみればどうかというと、せいぜい1.7倍である。えっ、そんなに少なかったのか? 違う、違う、勘違いしてもらっては困る。昭和22年前後の出生数は現在の新生児の2.6倍以上だ。

今の子供たちの数は団塊の世代当時の5分の2であるとみていい。しかるに1.7倍になったということは、5人中2人弱が亡くなったということだ。50代からは生死に関わる病気に罹患する率が高まるのであろう。この人たちは、今後益々同期の友を失うか、自分も死亡する可能性が高まっているわけだ。大変な時代を生きた人たちが、健康で末永く生きてゆかれることを祈っている。

この少子化の問題は社会のあらゆる分野に影響を及ぼすのであろうが、今回は高等教育にだけ目を向けてみる。現在、博士課程などを経て大学の教員になる人は20年後は自分の勤務する大学が存続しているのか、あるいは存続しているとしても大学教員を続けていられるのか考えてみたほうがいい。(もっとも、そんなネガティヴなことを考えるのは時間の無駄かもしれないが。)

大学教員の定年というのは70歳前後とみていい。今30代の大学教員は、ほぼ世代人口が半分になった日本で、それに合わせて首を切られる者が出てくるとすると、まだ50代である。予想したよりも20年ほど早く大学を追い出され失職することになる。年金もまだ受け取れない若さである。

果たしてそうであろうか。そうはならない可能性もある。その前に、視点を変えて、大学進学率や入学に伴う難易度などを考えてみよう。一つ、東大を例に取る。団塊の世代が東大を目指した頃は現在の東大入試よりとてつもなく難しかったであろうか。私は基本的には特に難しかったわけではないと考えている。もっとも安田講堂事件の後は東大入試がなかったので、少なくとも翌年受験した者は難しかったともいえるが、翌年まで待って受験した者たちが、やむをえず京大その他に向かった者たちより優秀であったという保証はない。

東大の入学定員(高校卒業後入学する学部に限る)は団塊の世代の頃よりあまり変わっていない。現在の約3,000人より200人ほど少ないだけである。その後50人、100人位ずつ漸増したが平成4年の約3,600人をピークに、受験世代の減少に合わせて漸減するようになった。団塊の世代の大学進学率は約10%であり、現在は50%に迫っている。(これらの話は日本のことだからね、念のため。)従って、2人に1人の大学進学希望者がすべて東大を目指すわけではないが、人口が少ない世代でも受験層の厚さということを考えると、団塊の世代のお父さんお母さん、今の東大生の質があなた方の世代より悪いというのは誤解ですよ。人口が多くても、団塊の世代で東大入試で競争しようとした数は多くはなかったのですな。今は厚い受験者層を背景にして、競争は熾烈です。しつこいようだが、あの頃東大に入った者が今入っている若者より優秀だったなんてことはないんであります。(これで、Dr. Marks も若者の人気を獲得できるかな?)

さて、今度は学生でなくて教員に目を向けてみよう。団塊の世代が大学を卒業する頃になって新設大学のラッシュがあった。バブルの始まりでもある。しっかりとした基盤で大学を作ったり、新しい学部や大学院を新設することもある一方、いい加減なところもあった。実話だから紹介するというより、当時のことを知っている人には常識だったが、図書館の本も教員もゴミを集めた時期がある。

図書館の本のゴミって何だ。うん、員数合せのためにだね、古本屋に頼んで学術的な価値があろうがなかろうが一山なんぼで買った本を真新しい図書館の中に納めて設立審査をやり過ごしたのさ。教員のゴミって何だろう。うん、今の70代から80代の人で、有名大学を出ているとか、企業や官庁である程度の地位にある人から員数合せの教員狩りをやった。こんな寄せ集めの人たちは、学問的な訓練がないから、本来の大学教員とは言えないような人物もいたね。(教室に行ったはいいが、立ち尽くして講義ができないとか。)もちろん、優れた方々も多かったが、この時期でなければ大学教授になどなれなかったラッキーな人が多かったのだよ。

かくして日本の大学生と大学教員の質には、大学の大衆化に伴う格差の拡大が到来した。とかなんとか言ってもね、構わんのですよ。誰でも彼でも学歴つけてマネージャーになってやるー、とかの世迷言を言わない限り、社会に出るまでに、あるいは社会に一旦出てきてからでも、大学というところに行ってみることは、その大学のそれぞれの質はともかくとして、とても大事なことだ。識字率の高い国民は栄えるし、大学進学率の高い国民は生産性も高いと考えるからだ。どんな大学であろうが、一度無理してでも門をくぐってみろ。新しい視野が広がるぞ。

だから、20年後の日本人が100%近く大学に行けるようになっていればですな、大学教員もなんとか職はありますよ。そうなれば、全体としては大学教員など高等学校の先生と同じ程度の社会的地位になるが、やっていることは多分違うだろう。大学教員は大学教員としての教科を教えるのだから。また、その頃になると、現在もそうなりつつあるが、大学は必ずしもアカデミックな学問の場ではなくなり、多くの部分が職業学校化すると思う。

つまり、大学院のかなりの部分が職業学校化してくるはずで、職業と必ずしも結びつかない古い意味での学問探究者は、それほど多くはならない。一部のそういう学者を除けば、むしろ大学院は職業教育の場となって、学部の教養課程の先生のほうが従来の大学教員にふさわしいことを研究し教育する世の中になるかもしれない。ちょっと皮肉だけれどもね。実際、アメリカの大学院なんか多くが職業学校であって、学部の先生のほうが大学の教員らしいよ。しかも、若いときに不幸にして大学に行くことができなかった高齢者を対象にして、教養課程(および学部課程)の教員の需要はむしろ拡大するかもしれない。

というわけで、30代、40代、50代(←これも含めるか)のマイ・コリーグズ、将来も安泰だよ。健康に気をつけていい若者を養成しろよ。恵まれた労働環境なんだから、大学教員たるものdecency を堅持してユニオンなんかに加担せず、心から教育に研究に専念してほしいと思うよ。

もう一つ。多分、近世までの学者のように、大学の教授職などに未練はなく、聞きたい者には講義してあげるが、研究と執筆に専念する学者も増えるだろうな。んっ、生活どうするかって? そんな融通の利かん奴は、学者なんか止めて赤旗でも振ってろ。自然科学系は一匹狼で学問することは不可能だから、どこかに所属するだろうけどね。

以上の統計の元はいちいち書かない。人口統計は日本の国勢調査、東大の定員は東大のサイトを参照のこと。自分で探せん者は誰かに聞け、元へ、お聞きなさいね、甘ちゃん。