Comments by Dr Marks

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疑似科学の問題点の一つ:真正の科学だったら正しいとは限らないことに注意

疑似科学(偽科学pseudoscience)に関する議論が盛んなそうだ。この数日ブログめぐりをさぼっていたら(こういうのサボると言うんだろうか、むしろ真面目に仕事していた?)Antonian氏のブログにそう書いてあったし、Finalvent氏のブログでは長々と議論が続いていた。

平和だな。_| ̄|O 疑似科学あるいは偽科学を「権威を騙る科学もどきのまやかし」とするなら、確かに社会問題ではあるが、実際の学問の場では、たとえ自然科学の分野でも話題になることは少ないはずである。

疑似科学(偽科学)の最大の問題点は、それが何らかのことを絶対的な真理であると主張するだけでなく、科学を権威として、素人に無批判に受容することを強制することである。つまり、議論が間違っているとか、データに誤りがあるとかではなく、権威的教条主義だということである。

偽でない科学でも、議論が間違っていることはあるし、データが誤っていることもある。そのような不備をもって、「偽」科学と批難することはないはずだ。疑似科学が批難されるのは、あたかも未来永劫にわたって真理であるかのごとく権威を押し付けることにある。個々の粗捜し(debunking)が意味のないことではないが、権威による強制あるいは騙しがあるかないかをまず検討するべきだ。

我々の分野(神学・聖書学)では、常に具体的な問題に関わることであり、その際に方法論が問題となることはあっても、それは疑似科学だといって議論になることはないだろう。DrMarksのアフォー! 神学・聖書学が科学か? ええ、科学なんですよ。この場合、science や Wissenschaft は科学(学問)なのだ。

疑似科学などではなく、正真正銘の科学なのだ。この場合、議論はあるであろうが、Karl Popper の反証可能性(falsifiability/refutability)と似ている議論の可能性(余地)の存在をもって科学としている。従って、論理が間違っている、あるいはねじけているから疑似科学などとは言わない。それは単に間違っているだけであるし、間違っているのが間違っているかもしれない。

常に、議論する可能性がある、あるいは議論する者の間に共通のルールが設定できる状態を科学する、あるいは科学できる状態と考えている。そのように考えると、科学には権威など原理的に存在しない。いつでも結果が転倒する可能性を含むからである。

しかし、これは、誰でも好き勝手に何かを主張できるという無政府状態の精神活動ではない。対話が不可能で、是は是、非は非と権威的に固定するしかないような独白は、我々がまさに疑似科学と呼ぶものである。

もっとも、このような専門的な対話においては、何らかの学問的(科学的)訓練が必要ではあるが、一般の人が全く不可能というわけではない。どのような深遠な議論も、噛み砕いて時間をかけることが許されるのであれば、素人が十分に参加できると考える。

もちろん、学問的な訓練を積んだ者同士であれば、分野が異なっても、説明や理解に時間を要する素人よりは簡単かもしれない。我が愛するイエズス会士のマイヤー兄貴が、著書で変なことを書いたと笑われたものであるが、私はよいことだと思ったことがある。

それは、彼の『マージナル・ジュー(A Marginal Jew)』の第一巻で(現在、第三巻まで完成)、法王の権威付けのない枢機卿秘密会議(unpapal conclave)として、史的イエスを議論するために、ローマカトリック教徒、プロテスタント教徒、ユダヤ教徒無神論教徒(無神論だって立派な信仰だから「教徒」)がハーヴァード大学神学院の図書館にこもる、という状況設定をしたことだ。ここでは、権威付けがないだけでなく、信仰を超えて共通の議論が行われることになる。(しかし、ハーヴァードの神学大学院でなければならないのはご愛嬌なので深く追及してはならない。)

えーと、今回の学会では「秘密のマルコ伝」が捏造かどうかが話題となるセッションがあるので楽しみだ。聖書学者だけでなく、法律家や音楽史の先生方の議論も検討される。もちろん、捏造したのはモートン・スミス教授というのが圧倒的に多数なのだが、数世紀前の修道僧が捏造したとも考えられる。

スミス教授の弟子のユダヤ学者ジェイコッブ・ヌースナー教授が、やたらスミス教授の根性の悪さや変人ぶりをスミス教授の死後に書きまくったからなー。(書いて教授に出した論文が印刷されないと思っていたら、スミス教授が破ってゴミ箱に入れていたとか。しかし、真偽のほどはわからんよ。)

故レイモンド・ブラウン師は真筆説でスミス教授を庇っていた。私も、捏造だとしても、スミス教授ではないと思う。時代的特徴のあるギリシア筆記体まで捏造してスミス教授が作ったというならば、天才も天才なんで、そのほうが面白いのかもしれないが、…、しかし、ともかく、これも擬似科学論争同様に、平和だな。 _| ̄|O