Comments by Dr Marks

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幼児性愛者の神父は、悪魔に誘惑されたのであり取りつかれたのではない(とヴァチカンのトップ・エクソシストは言うが、「誘惑と取りつかれ」どちらが罪深いの?)

昨日のCNNの報道(http://bit.ly/9Xhef2)をTwitterで紹介した。すると、誘惑と取りつかれの違いは、ということになった。そんなことはローマに聞け、と言いたいところだが、カトリック信者でなくては手近に懇意の神父様もいないだろうから、またまたしゃしゃりでようかとしたわけだ。

実をいうと、私は新約学はどちらかというと学系的には偽新約学者で、神学史や神学原論が専門。ええ、こちらです。ところが、いつの間にか神学というおしゃべりが大嫌いになってから、あまり勉強していない。それでも薀蓄を傾けていったら、何時間でもしゃべれる。例えば、悪魔学(demonology)と天使学(angelology)は対で学ばなければならない云々等々と。

ところが、こんなものに興味を持つ人間の気が知れないというのが、私の率直な意見であり、組織神学のおさらいでちょっちょっとやっておけばいいくらいのものという認識だ。叱られるかもしれないが。まあ、一番盛んなのが中世だから、本格的にやってる気違い学者はラテン語文献を(手書き古文書の読みにくいのとか)すらすらと読める必要はあるわな。勝手におし。

ただ、近代的精神で安直に理解してもらっても困る。具体的に言うと、このヴァチカンのエクソシストさん(悪魔払いの公認神父様)は、悪魔を象徴的にとか比喩的には考えていない。実体のある現実の力と考えている。こう聞くと、信じる力のない(あるいは欠如した)世間様信奉者は引くだろう。えええーっ、て。しかしなあ、それじゃあ、理解する前に誤解するだけであろうが。それは偏見(あらかじめの判断)というものだ。

一口に悪魔といっても、聖書の中ではいろいろな名称(サタン=サタナス、デモン=ディアボロス、ベルゼブルなど)があるし、クムラン文書にはべリアルという名の悪魔もいたりする。悪魔の中に序列もあったりするが、全体として統一した序列もないので、その辺りには今日立ち入らない。どのような名であれ、基本的には、穢れた精神を持つ「実体」で神に反抗し告発する者のことである。

なお、エクソシストという言葉だが、新約聖書ではエクソキステースのことであり、「追い出す」という動詞エクソーキゾーから来る。何を追い出すって? 悪魔、悪霊、穢れた霊だよ。イエス様もよくした。あんまりあるから、聖書の箇所を今回は書かない。ただし、一つだけ、マルコ伝3章20−29節を読んでごらん。ベルゼブル論争といわれる箇所で、イエスが悪魔(ベルゼブル)に取りつかれていることになってる。面白いね。(と、また聖書を読ませる高等技術。あまり、いくつも読ませないところが、老練なテクニック。)

さて、今回のCNNのニューズに関して、私はヴァチカンの聖職者ではないので、もう一度言うが、私が責任を持って語ることはできない。無責任な解説と思っていただいたほうがいい。しかし、外野ではあっても、専門家として多少の薀蓄を傾けるつもりだ。ただし、専門用語の日本語の訳語は、日本のカトリック教会が公式に使っているものではないので注意されたし。

このエクソシストの神父様の悪魔払いの原則は、一般信徒も目にできるカトリックの『カテキズム(公教要理)』にある。主たる説明は、同カテキズムの1673条に書かれているが、そこには、「教会が公に権威をもって悪魔の力から人や物を守り引き離す行為をエクソシズム(悪魔払い)という」とある。この行為自体はイエスが行ったものであるし、日常的に私的には行いうるものであるが、教会が公にというところが留意すべきところである。

公の中には、誰にでも適用される洗礼前の悪魔からの引き離しの儀礼もあるが、狭義には、「荘厳なるエクソシズム(大悪魔払い)」と称される悪魔払いのことである。これには具体的に細かい規定があり、許された聖職者以外は絶対にやってはならない儀礼というのがローマカトリックの1673条の規定である。また、精神的な異常は、医学の範囲のことであり、エクソシズムとは馴染まないことが規定されている。(第二ヴァチカン公会議資料に詳しい経緯あり。)

さて、ここで最初の問題に立ち返るのだが、この荘厳なるエクソシズムは、神からの威厳と権威を持って許された神父が専ら行う。対象は悪魔に取りつかれた人(および物)である。従って、取りつかれてもいない人に行使することはありえない。取りつかれているとはどういうことか。本人には取りつかれているという自覚もなければ、やっていることの意味さえわからずに行動することだ。

だから、取りつかれている人から悪魔を追い出し、真人間に戻さなければ救いようがない。これこそ狂気なのだから。逆から言えば、取りつかれている本人の責任ではない。そこで、幼児性愛者が幼児(少年、少女を含む)に乱暴な行為をした聖職者についてだが、このトップ・エクソシスト(悪魔払い主任神父)は、悪魔に誘惑されただけだという。つまり、唆されて自分がしでかしたのであり、悪魔に取りつかれて悪魔がしたのではないから、悪魔払いはしてあげない、むしろ誘惑に負けたことを厳しく反省し、自分自身で責任を取れ、と突き放しているわけだ。

結論:取りつかれていることよりも、誘惑に負けていることのほうが責任が重いというのが、トップ・エクソシストの説明であった。誤解してはならない。

ところで、余談:古い教科書だがプロテスタントで今なお人気のルイス・バーコフの『組織神学』と、カトリックだが、ここロスアンジェルスカトリック系書店では取り扱い禁止になった『オランダ新カテキズム』をぱらぱらとめくってみたが(どちらも自宅の本棚にあったので)悪魔払いには消極的で記述がないか、少ない。因みにバーコフもオランダ改革派だよ。オランダ人なら鎖国中でも、やはり日本は受け入れるんだろうね。常識ニッポンだから。