Comments by Dr Marks

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復活は「死ぬことがありえない神のいのちのうちに」とは

ある日本在住の神父様のブログにあった文言だ。(上の引用をぐぐればすぐ出る。)この神父様は日本語が母語ではないのによくやっていらっしゃると尊敬している。この神父様のブログのことは、私のこのブログを訪問される方から別の神学上の(正確には聖書学上の)疑問が寄せられたので答えたことがある。しかし、この神父様のブログに直接コメントすることは今日までなかった。しかし、ラザロの復活に関して珍しいことを言っているのでコメントを置いてきた。コメントは若干は神学に関わるが、主として聖書学に限定した。

私は、現代キリスト論を博士課程で専攻しており、主要な現代神学者のキリスト論(キリストとは何かを総合的に探究する分野)を研究して博士論文に仕立てるものと目されていたが、周囲の反対を押し切って(最終的には許可してもらったので)復活の墓に関する聖書本文と歴史と神学的哲学的な考察に進むことになった。現代キリスト論など、それぞれの個人の神学者の世迷言であり、学問的対象にはなりえないと(自分、尊大なもんで)考えたからだ。

それよりも、信仰の有無にかかわらず(有無にかかわらずというのも一種の理想形態なのだが)、誰とでも多少の理解が共有できて議論可能な分野に踏み入ったほうがいいと考えた。まあ、しかし、踏み入った所もとんでもないジャングルで(笑)ここ2−3年は同じ所をぐるぐる回って迷子になりそう(涙;)。人間は、博士論文を書き終わるまでは、あるいは合格するまでは、これさえ終わればと思ってしまうものだが、本当は、終わってからが大変なんだ。出来上がった論文の上に乗って周囲を見回すと、ちょっと大袈裟だが、高所恐怖症に襲われるほどたくさんの未解決の地盤の上に、1本の細い柱にすぎない自分の論文にすがる哀れな自分がわかってくる。

で、標題の引用部分なのだが、この部分には私はコメントしてこなかったので、ここに書く。あのですね、キリスト教の起源(復活と密接な関係があることだけは確か)と後の神学論争(正統と異端の歴史と言ってもいい)は分けて考えたほうがいいのだが、神学論争の中で、三位一体論争に決着が付いた後は(コンスタンティノポリス信条、381年)、キリストの神性と人性が問題になった(カルケドン信条、451年)。

で、いわゆる正統派はキリストの神性と人性の双方を認めるのだが、神性しか認めない派閥を単性論者という。(論理的には人性しか認めないのも単性論者だが、そのような「単性論」は古代のものではなく、近代以降のものと考えていい。)単性論者といっても一枚岩ではなく、さまざまな変種があるものだが、おおむねは、この単性論からすると、イエス・キリストの復活というものは出来レースになってしまう。

どうしてかというと、もともと不死身なのだから死なないのだ。復活というよりは、不死身の神が死んだ真似しただけ。だから十字架の上で受難することなど不可能なのだ(受難不可能論)。この考えは比較的早期に歴史上に登場している。その場合は「仮現論」といわれる。キリストは人間の肉体など本来持っておらず<仮>に〔見せかけ〕でこの世に出<現>していただけだというわけだ。だから、十字架上の苦しみも、ありゃ芝居よー、という次第。後のグノーシス思想のほとんどは(全部かな)仮現論。

そうすると、上記の言葉を書き付けた神父様は現代の単性論者で仮現論者かというと私にはわからない。神父様に聞いてみるしかない。そもそも、このようなことをああでもないこうでもないと議論するのが現代キリスト論だから、私は神学が嫌いなのだ。従って、この点についてはコメントする立場にもなかったのだが、ふと古代のキリスト論論争史を思い出してしまったので自分のブログに書きつけたまで。

ただ、こういうふうにキリストを考えると、復活なんてどうでもよくなる。どうでもよいと考える人が復活祭のミサを主宰するのは問題かもしれないが、この神父様はどうでもよいとは考えていないと信じる。というか、聖書記述で確認できないことはどうでもよい。ただし、一方的な解釈だけでミスリードするのは倫理的にもよくないだろう。

ここに現れた神学用語はたいてい日本語ウィキペディアにあるようですから必要ならば参照ください。神学って、面白くないですよ。