Comments by Dr Marks

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健全な宗教はいい加減な指導者が育んだ(いや今回はベネ16ローマ教皇でなくユダヤ教ラビたちの話)過ぎ越しの祭を前に

29日(月)の日没からセダー(Seder、過ぎ越しの祭Passoverの最初と二番目の夜)が始まる。腰を痛くして夕食後には横になってショローム・アレイヘムの「田舎の過ぎ越しの祭」という短編を読んでいた。イーディッシュの作家だが、イーディッシュなんか読めないので英訳本だ。なお、この作家は「屋根の上のヴァイオリン弾き」の原作者だから、日本でもある程度有名だと思う。私も好きな作家だ。のほほんとしたところがいい。

この物語ものほほんとしている。彼らは明日何が起ころうが屁の河童。ところが、セダー初夜の前に子供がいなくなると、ウクライナの田舎では大騒ぎ。この短編でも二人の少年が日没近くなっても帰らないので大騒ぎ。村長やら村の巡査やらが子供たちの親や村人たちと何やら言い合いをしている。二人の少年が帰って来ないことが原因ならば、そんなおしゃべりをしていないでさっさと探しに行けばいいと思うのだが、彼らは子供らの親を咎めるばかりなのだ。

何のことはない。山で遊んでいた二人の少年は、そんな大騒ぎの中にひょっこり帰って来る。二人はそれぞれの父親には振り回されたり叩かれたりで大変だが、子供は何のためにそんな仕打ちをされるのかわかりはしない。母親たちは、父親に我が子がこれ以上痛められないうちに引き寄せて、自分たちも一応ひっぱたいてお仕置きしたふりをしてから、頭を洗ってやりお祭りの洋服を着せてやる。

母親は、「ああ、こんな過ぎ越しの祭など早々に終わっていたら、子供たちのことで心配などしなかったのに」と嘆く。へー、と思う。そうなんだ。初い子を守るのが過ぎ越しでもあるのだ(出エジプト記 11:4-5)。作者アレイへムが冗談で書いているのでなければ、子供がこの時期、ユダヤ人への嫌がらせで連れ去られ、十字架に付けられるような事件があったらしい。ウクライナの寒村で、村中がセダーなのに帰って来ない子供たちを心配する理由も頷ける。

過ぎ越しの祭の前の主婦は大変だ。前の晩までに家中の酵母酵母の入ったパン(ハメッツ)を取り除いておかなければならない。家の中に置くことはまかりならない(出エジプト記12:9)。それでも主婦は完璧にはいかない。家の外に出し損ねたものがないとは限らない。戸棚の奥に、瓶の底に欠片が残っているかもしれないのだ。主婦は罰せられるか? しない。ちゃんと、そんなもん、ただの土くれとみなす文句が当夜の祈りに組み込まれている。ユダヤ教は女にやさしい。

彼らは、少なくともセダーの初夜には種無しパン(マッツォ)を食べなければならない。マッツォとハメッツはヘブル文字で見ればますます似通っているが、その差は重大だ。セダーでなくハメッツを食べたら破滅なのだ(うっ、また寒い)。ところが、同居する非ユダヤ人が普通のパンを食べるのは構わない。ユダヤ人の所有でないものが、同じ屋根の下にあることは問題ないのだ。

しかし、酵母などを商売にするユダヤ人は少なくない。例えば、ワインやビールなども酵母で造るが、セダーで飲むワインは問題ない。なぜなら、熟成の済んだワインの酵母は自らこしらえたアルコールの中で死ぬからだ。ところが発酵中のビール(ぼじおれぬぼ以前じゃよ)とか酵母関連を商売にしているユダヤ人はどうするのだろう。酵母は、家の外に置くだけでは不十分なのだ。所有権を放棄しなければならない。

実際に、ロシアやポーランドウクライナで、その手の商売するユダヤ人が多かった。ラビは賢いよ。ユダヤの法でも手付けを打てば、いったん所有権は手付けを打った者にわたる。しかし、実際は手付けの額だけの保証しかないから、その後の払い込みがなければ元に戻る。だから、彼らは一応信用できる非ユダヤ人に形だけ手付けを打たせ、形式的に所有権を過ぎ越しの祭の間だけ手放すのだ。お礼はウォッカ1本か、スコッチ1本かは知らない。ともかく賢いではないか。ずる賢いのではない。やさしい賢さだ。

シェンマイと同時代(ヘロデ大王時代)にヒルレルという律法学者がいた。ガマリエルの許で学んだとパウロが語ったり(使徒行伝22:3)結果的にペテロたちを助けた(使徒行伝5:34)ガマリエルとは、ヒルレルの孫である。バビロニアの貧しい暮らしで育ったヒルレルはシェンマイに比べて融通のきく解釈をする学者で、現在のラビの中心的な伝統は厳格なシェンマイではなくヒルレルの流れを汲むと言われている。

そのヒルレルの言葉とされるものに「自分の為に生きない人生はなかったも同じ人生、しかし自分の為にだけ生きる人生は自分を知ることがない」がある。人間、頑固であることは必要だ。人間は本当に自分が食べたいものだけを食べて暮らさなければ無意味だ。しかし、それゆえに周りのことが見えていないと、自分の立ち位置も怪しいし危うい。気兼ねなく生きることと、隣人へ気配りすることとは矛盾しない。それをいい頃加減にだらだらと両立させれば幸せな人生を送れるぜ、諸君。さあ、明日もチャランポランに生きよう。

Tomorrow is another day. . . Let the winds blow. Let the storms rage. Let the world turn upside down. I pay no heed to storms . . .←勝手にDr. Marks がどこかから持ってきたものをいい加減にミックスしただけだから、出典など探さないように。