Comments by Dr Marks

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ネダー・アガー=ソルターン(Neda Agha-Soltan)とか樺美智子とか、余はよくわからん

前者は去年の今日(2009年6月20日テヘランイラン大統領選の不正に抗議するデモに参加していて銃弾を受けて死んだ女性歌手(どんな歌を歌っていたのかはしらない)。樺美智子は1960年6月15日に安保闘争で死亡した東大文学部(日本史)の女子学生である。いずれも6月が命日だが、樺美智子の報道はなかったように思う。今日、ネダー・アガー=ソルターンについては CNN などが一周年忌ということで報じていた〔http://bit.ly/bHETPk〕。

しかし、はっきりいって彼女らが英雄視されたり騒がれる意味がよくわからない。デモに行ってたまたま不幸なことに命を失った。とても気の毒なことではある。しかし、彼女らが何をしたのか。少なくとも樺美智子は自覚的にデモに参加して、学生側の主張では官憲に殺された。ネダーは、伝えられるところによると、これも自覚的にデモに参加していることになっているが、どうも状況的には車で行ったというのがひっかかる〔http://bit.ly/Kpcsu〕。そして、狙撃者は政府側民兵である。

二人とも当時の政府の方針に反対してやむにやまれず正義の心からデモに参加したとしよう。まあ、それはそれで事実は違うという根拠もないからだ。ところが、同じような女性(あるいは男性でも同じ)はたくさんいたはずで、行為自体は皆同じはずである。たまたま片方は命を落とし、片方は生きながらえている。それだけであって、行為的にすぐれたものがあったわけではない。

樺の場合は母親が彼女のことを手記にしたり、ネダーの場合は多少知られた医師で作家〔http://bit.ly/fn321〕が偶然に側にいて手当てをしたということも話題性の増幅にはなった。しかし、彼女ら自身のこととは関係がなかろう。それぞれが時の政治的あるいはメディア的な材料にされただけである。

余は彼女らの抗議行動をどうのこうのとは言っていない。とくにイランの選挙の不正には憤っているものの一人で、そのことを先日ブログにしたばかりだ。死んだことはかわいそうだが、死んだだけで英雄なのかと言っているのだ。むしろ、死んで本人が何もものを言えないのに、単にキャンペーンに使われるだけであれば、逆に浮かばれまい。

以下、人の死に茶化すようで申し訳はないが、死ねば死んだだけでキリストか。そうではないだろう。余は(そんなことは今まで書いたことはないと思うが)実はアメリカ軍の行動を妨害した容疑で官憲に暴行された上、不起訴が確定されるまで20日間拘束されたことがある。あんとき死んでれば余も有名人だったろうか。

「樺は『人知れず微笑まん』という遺稿集がロングセラー。84年に22刷になっている。」←小谷野先生から Twitter でのご指摘。他に樺は文学部学友会副委員長という肩書があるリーダーだったと付け加えます。