Comments by Dr Marks

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新約外典「ペテロとパウロの言行録」では両者がローマで会し同時に殉教する

Twitterでフワカズさんとポーチュラーカさんがつぶやいていたことから思いつき書いてみる。二人の話は聖書にはペテロがローマに足を運んだ記録はないが外典にはあるし、カタコームの壁画には両者のローマでの感動的な再会シーンがあるというものだ。

Peter: Apostle for the Whole Church (Personalities of the New Testament)

Peter: Apostle for the Whole Church (Personalities of the New Testament)

お二人の話のとおりである。正典の新約聖書27巻のうちには、ペテロがローマに入ったという記録はない。使徒行伝の末尾でパウロがローマで暮らす記述があることとは好対照である。(ここで聖書学の習慣を一つ。聖書正典の書名は英語でも日本語でも括弧の中には入れないが、外典の書名は括弧に入れるか英語などではイタリックにする。)

もっとも、ペテロが殉教で生涯を閉じるであろうことは、ヨハネ伝(21:18−19)はじめ、他にもほのめかしはある(第1ペテロ5:13でのバビロンをローマと考えてもいい)。しかし、そこがローマであると言明してはいない。ただ、初期キリスト教の教父たちは、そこがローマであったことを周知していた。「教会は伝統的にペテロがローマで・・・」という伝統は、諸々の状況証拠からほぼ歴史的事実とみてもいい。

ところが、数々の外典の中には、ペテロもローマ入りし、パウロと同じようにネロの治世下で殉教したとの明確な記述がある。むしろ、今回取り上げた「ペテロとパウロの言行録」は、それらの総集編と考えてもいい。つまり、研究者によれば「ペテロの言行録」が初めに書かれ(多分、2世紀)、次にそれを基に「パウロの言行録」が書かれ、最後に(多分、4世紀)「ペテロとパウロの言行録」が書かれた。

ネットでの概説は英語版ウィキペディアで Acts of Peter and Paul の項目となっている(http://en.wikipedia.org/wiki/Acts_of_Peter_and_Paul)。英語版のほかは、イタリア語版とヘブル語版があるだけだ。また、全文はカトリックのサイトで読める(英語版のみhttp://www.newadvent.org/fathers/0815.htm)。

二人とネロのほかに、魔術師シモン(Simon Magus)、また総督アグリッパが出てくる。ネロはシモンのほうが法力あるいは神からの力を授かったものと思い込むほどシモンの仕掛けは素晴らしいが、結局、パウロの助言に従って行ったペテロの祈りでシモンの化けの皮が剥がれ、シモンは墜落死する。これを基にアグリッパの進言によって、ネロはオステシア通りでパウロの首をはね、ペテロはシモン殺人の罪で十字架に掛けた。

ペテロはこのとき逆さ十字架を希望しそのようにされる。ペテロの死体は有力な信者であるマルケルス(アリマタヤのヨセフのような役割)らの手で密かにヴァチカンといわれる所の地下に埋葬された。ここまでが、この言行録の話である。

ヴァチカンの地下にペテロの遺骸があるということは極めて古い伝承であったが、1940年代から1950年代にかけてのサン・ピエトロ大聖堂地下の発掘で、伝承どおりにペテロの遺骨のようなものが発見された。多くの学者はペテロであろうとするが、もちろん疑う学者も少なくない。(手頃な参考文献、Pheme Perkins: Peter, Fortress Press, 2000)