Comments by Dr Marks

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シリーズこの人だーれだ? それと北アフリカとフランスのユダヤ人

北アフリカとフランスのユダヤ人といえば、おなじみマコさんの領域だが、第二次世界大戦からイスラエル建国と北アフリカ諸国の独立にかけて歴史を生き抜いたユダヤ人にとっては明日の選択が極めて難しかったろうと思う。

マルセル婆さんは1919年にチュニジアで生まれた。いわゆるセファラディック・ジューといわれるユダヤ人だ。だから、その地のユダヤ人世界では共通語がラディーノというスペイン語とヘブル語の合いの子言葉なはずだ。アシュケナージ・ジューの言葉がドイツ語とヘブル語のちゃんぽんであるようなものだ。

ところがマルセル婆さんが生まれた頃のチュニジアはフランス領になって1世紀近く経っているので、マルセル婆さんの母語はフランス語ということになる。今回彼女の葬式に出席して、ああ、この人たちはラディーノ文化だと思ったのは、ラビが自作の婆さんに捧げる詩をラディーノで紹介したときだ。しかし、もう誰も彼が英語に訳してくれなければ理解できないような雰囲気だった。

婆さんは14歳のときに両親に連れられてフランスに渡った。21歳のときにパリでルネと知り合い結婚。1940年だ。そう、フランスにナチスが侵攻してヴィシー政府がフランス本土の政権となった年だ。この頃までは北アフリカユダヤ人のほうがドイツやアウシュヴィッツに遠い分安全だと思われていた。ところが、1942年になると、北アフリカで唯一チュニジアだけがナチスの直接統治となってしまった。

フランスのユダヤ人はヴィシー政府においてさえ、実は生き残った者のほうがアウシュヴィッツ等に送られた者よりはるかに多い。その理由はたくさんあるが今回は省略する。ともかくフランス本国のユダヤ人の75%は大丈夫であった。オランダのユダヤ人は逆に75%が殺されている。

マルセル婆さんとルネ爺さん(1992年没)は1960年にアメリカに移民し、ロスアンジェルス郊外のコヴィナ市にレストランを開いた。しかし、ほどなく彼らはカナダのモントリオールにも店を構えた。どうしてだろうか。確かにモントリオールは彼らの母語であるフランス語圏だ。しかし、私は大変な時代を生き抜いた知恵でリスク分散ではないかと思う。

チュニジアユダヤ人は戦前12万人いたが、イスラエルの建国(1948年)、チュニジアのフランスからの独立(1954年)を経て、半分に減ったそうだ。現在、アラブ語のチュニジアにおいては多分1万人くらいに激減していると思う。まあ、チュニスなどにシナゴーグはあるそうだが。

そうそう、写真の人物ね。部分的にユダヤ人の血が入っているといわれる北アフリカの女性だよ。チュニジアではない。リビアの人だ。名前はアイシャ・カダフィー。職業は弁護士。そう、大佐殿の娘。今はアルジェリアに亡命している。