Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

一番いい写真が見つからないのでやる気が出ないがTriangle Shirtwaist Fire 事件の100年目につき、ローズ婆さんのことについて(アメリカ版女工哀史)


まあ、気安くローズ婆さんと呼んでも、親戚でもなんでもない。しかしビヴァリーヒルズでは有名な元気婆さんだった。死ぬまでハイヒールで歩いていた。ハイヒールは自立した大人の女の象徴だというのだ。ところで婆さんなんて失礼なという堅物もいるかもしれないが、2001年の2月15日に108歳目前で死んだ婆さんなんだ。家族だって「長生きしてご苦労さん」ということで悲しくもなにもないと言っていたくらいだから、婆さんと呼んでなにが悪い。

このニューヨークはマンハッタンの146名の犠牲者を出した火事は人災だった。9階の作業場に閉じ込められた女工たちが焼け死んだり行き場を失って9階のビルの窓から飛び降りたりエレヴェイター口から下に墜落して146人が死んだという悲惨なものだった。消防車の梯子も6階までしか届かず、梯子から身を乗り出して飛び降りる女工たちを受け止めていたのだが、スカートに風を受けて流され、そのまま地上に落下する者が多かった。細かな情景はネット上で英文で読めるはずだが悲惨すぎてこれ以上は書きたくない。

ローズ婆さんは1893年3月27日オーストリアはウィーンの北の小さな町のユダヤ人家庭に生まれた。父親は乾物の輸出入業者だったがニューヨークの町に惚れ込んで結局妻子を連れて1909年に米国に移民した。ローズ婆さんが16歳の頃だが、婆さんは最終的に7か国語の語学に親しんだくらいだから、初めから英語の問題はなかったようだ。彼女は進歩的な考えのおばの影響から、家事だけの女性には飽き足らず、進んで町に出て働こうと考え、件の工場に縫い子(お針子)として就職した。そして彼女の18歳の誕生日に二日早い1911年の3月25日に事件が勃発した。午後の4時過ぎらしい。

火事は裁断などに従事する男のいる8階から発生したが男たちは皆地上に逃げた。しかし、9階の針子の女性たちは地上に降りるために二つあるドアに向かったが、いずれも固く閉じており、下への階段に向かうことができなかった。経営者は女工が逃亡したり布切れを盗んで持ち帰らないようにドアに鍵を掛けていた。結果として、それが焼死・墜落死による多数の犠牲者を出すことになった。

さて、婆さんはどうやって生き延びたのか。窓からダイヴしてうまく受け止めてもらったのだろうか。違う。彼女は皆とは逆の下には向かわず、上の10階に通ずる階段を昇って行った。そこは会社の役員たちの仕事場であるから、役員たちがどうするか見に行ったのだ。すると、役員たちは屋根に上り、次々と隣のビルで待ち構える消防士に救出されていた。彼女もそうして屋根から救出された。

まあ、彼女の孫で二十世紀フォックステレビ社長のデナ・ウォルデン(写真の若い方)によれば、婆さんは抜け目がないから役員たちはどうやって逃げるのか様子を見にいったということだが、それなら階下の女工たちにどうして知らせなかったのかと誰でも思うだろう。しかし行ったら知らせる前に消防士に助けられ、火が回って手遅れだったのなら責めることはできない。実際、彼女はその後劣悪な労働条件から女工を守る運動に身を捧げてもいるのだから。助けられ地上に降りたら、心配して駆けつけた父親の姿を見て泣き崩れたらしい。その後は女工は辞めてカレッジに通学したとのことだが、どのカレッジだったのか今では家族の誰も知らない。

事件の後、いったんオーストリアに戻っている。そのときは対ロシアのスパイの命を救ったとの武勇伝もある。第一次世界大戦アメリカに戻り、ローズ・ローゼンフェルト嬢は、同い年のハリー・フリードマンと結婚してローズ・フリードマンとなった。まあ、ユダヤの娘はユダヤの男と結婚したわけだ。彼はタイプライターを扱う商人だったが、59歳の若さで死んでしまう。ローズ婆さんは下にポリオを患う子供もいたのに夫はろくな財産も残さずに死んでしまった。

そこで婆さんは、当時60歳になっていたが、歳を50歳と偽って保険会社に勤め、79歳まで働いた。それからも20年ニューヨークに住んだが、100歳になる頃、子供たちや孫たちの勧めでカリフォルニアのビヴァリーヒルズに移り住んだ。たちまち町の人気者となり、ビヴァリーヒルズで彼女を知らないのはもぐり扱いであった。107歳になってもハイヒールを履き、手押し車のようなものを自分で押してお孫さんと歩く姿を見ることができた。

ところで同じ生き残りで100歳以上生きた人がいる。ベッシー・コーエンという同じユダヤ婆さんだ。1999年に亡くなった。当時の犠牲者名を見てもわかるように、このように女工たちの多くは東ヨーロッパやロシアから移民したユダヤ人で、劣悪な労働条件に甘んじていた。アメリカ版女工哀史である。

(彼女の若いときの写真はもっと凄いのがあるんだ。ここに載せたのはネットにあったもの。一番いいのは家のどこかにあるが見つからない。なお、年代が新聞記事などと違うところがある。余が独自に調べたもので余のほうが新聞記事より正しい。)