Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

コメントしたくなくなったブログへのコメント:内田樹のブログにちょっと(猫猫による内田)

このブログには、もうしないと言いながら、内田ちゃんの言説がかわいいので、その舌の根の乾かぬうちに、すぐにまたしてしまった前科が私にはある。そう、またするかもしれないが、今はこの決心のつもり。理由は、馬鹿らしいから。(陰の声:じゃ、こんなこともするな。そうだな。)

私の体の具合が悪いのとメールの怪しげな動きとで、このところへたっていることは本家で述べた(http://markwaterman.blogspot.com/2007/10/not-flu-but-common-cold-not-wrong.html)(なお、本家の誤記「直らない」は「治らない」訂正しました。サンキョ!←これ一時的局所的〔?〕に流行ったThank you のおどけた発音ですが、日系3世で教会事務所のBettyさんと共に復活させたいと願っております。まだ、会は結成されておりません。)

さて、今日はコメントをしたくなくなったブログへのコメント第1回だ。9−10か月にわたり、内田樹という最近は高等学校の国語の教科書にも登場する人気者のブログ『内田樹の研究室』に訪れている。しばしばコメントもした。内容に応じて、誉めたり貶したり、あるいは読者に対しても挑戦したりしたので、ブクマされたコメントの幾つかは今でもネットに出回っているらしい。まあ、ほとんどは私が読者に反発されての結果だが。

人間的には真面目でとてもいい人らしい。<離婚>した後も、<有責行為>があったわけではなかろうが、6歳の娘さんを引き取って育てたのも感心する。高校中退で東大に入るくらいだから、猫猫先生流に言えば、頭も悪くはないのだろう。危機に際して、要領が悪いというか潔い経歴も好感がもてる。しかし、学者としてはどうか。人間を教育する教育者としてはいいが、学生を学問に導く研究者、学府での学問を経験させてから世に送り出す大学教員としてはどうなのか、疑問である。私の彼のブログへのコメントを初期の頃から読んでいた人の中には、そのような疑問を私が初めから抱いていたはずとお感じの方も多いだろう。(人のこと言う前に、自分のですね。Matthew 7:4; Luke 6:42.なるほど、 しかしMark にはない。)

彼の本を最近2冊買ったというのも既に本家ブログで述べた。1冊は『他者と死者(ラカンによるレヴィナス)』というまことに好もしく、かつ魅力的な書名である。(誰かが言ったように、この本の値段は高い。しかし、有名でない出版社が小部数出版したのであろうから仕方がない。私はむしろそういう出版社や出版物が好きなのだ。)開いたら真っ先に専門家は読むなと書いてある。おやおやおやということで引き込まれながら、具合の悪い先の土曜日のことだが、ゴロゴロしながら読んでみた。結果? 言いたくない。言わんといったら言わん。

そうではなくて、最近の記事「卒論中間発表です」に話題を絞って述べる。ただし、その過程で上記の著書などに触れる可能性はあるかもしれない。記事のサイトは右のとおり。一部引用するが全文に興味があればこのサイトで見てほしい。→http://blog.tatsuru.com/2007/10/10_1255.php

別に何だっていいんだよ。
メディアで流布している「説明」に対して「ちょっと、それは違うんじゃないのかな・・・」という違和感があるときに、自分を納得させることのできる、身体的な実感のあることばを自力で書いてみること。
それがたいせつだ。
誰かの語る「正しい説明」を丸暗記して、腹話術の人形のように繰り返しても、あまりいいことはない。
「正しい説明を丸暗記して、そのまま繰り返すのは間違っている」のではない(だって「正しい」んだから間違っているはずがない)。
そうではなくて、「あまりいいことがない」のである。
「正しいこと」と「いいこと」は違う。
[中略]
レヴィナス老師のたいせつな教えの中に「世界を一気に救おうとする考えは人間の人間性を損なう」というものがある。
すべての不幸を解決する「最終的解決」の方法を私は知っているという人間を信じてはいけないと老師は教えている。

形からゆこう。本もまあ、こんな調子なのだ。文章というよりは詩歌。まともな段落がない。日本語の特徴くらい知ってるよ、日本語教師だし。形式段落と意味段落があるんだよね。段落(paragraph)とは何かを徹底して教えられているアメリカの学生ほど、段落が二つも日本語にはあると聞かされると、まずここでつまずく。おお、偉大なる混沌って。

別に何だっていいんだよ。」そう、何でもいい。小中学校のお調べ授業ならね。でも、「学士」様上げるのに何でもよくはない。日本だけこんなことが許されるなら、今後アメリカの高等教育機関は日本の学士の学位など信用しないぞ(←大統領みたいですみません)。方法論ないし研究対象が大学の専攻科目と関連があるものであり、先行研究との比較が可能なものでないかぎり、学問的論文ではありえないではないか。先行研究のないテーマでさえ、どうして先行研究がないかを説明する先行研究というものがあるのだ。卒業感想文でもあるまいし、まったくー。

もっとも、学士の論文など廃して、課程の中で代替研究があるのであれば、論文の要件など、それこそどうでもいい。しかるに、必修論文何単位などと麗々しく掲げるのであれば、それなりのことをしていると思うではないか。(陰の声:あのねー、何にも書いたことのない女子大の娘にともかく書かせるんだから大変なのよ。←甘えるな、馬鹿な教師じゃあるまいし。卒論とはどういうものかきちんと教えたほうが、かえって書きやすいものなんだよ。教えられないわけではないのだから、「何でもいい」けど、これとこれは守ってね、と言わなきゃ。)

また猫猫先生のヨイショと言われそうだが、小谷野先生の良い書にはこう書いてあるよ。少し長くなるが、彼の「学問のルール」と題する2段落の文章は基本の基本であるから引用させてもらう。著者と出版社に許可は得ていないが、許可を得る必要の範囲外であるから勝手にさせてもらう。なお、2段落の文章だが、段落の切れ目についても注意のこと(いい切れ目だということがわかるね)。ただし、縦組みを横組みにしたことと段落の始めを一字下げにしなかったことは原文と異なる。

学問には、ひとつのルールがある。それは、どのような分野の学問でも守らなければならないルールである。先行研究を読むことである。そして自分の論文の中で、必要とあらばそれら先行研究を紹介し、評価し、批判しなければならない。もし発表したあとで、重要な先行研究を見落としていたことが分かったら、書き手はしかるべく謝罪し、必要ならば自論を修正しなければならない。これに次いで重要なルールを付け加えるとすれば、それは書き手がどのような主義主張を持っていようとも、そのために事実をねじ曲げてはいけないということだ。
しかし、これらのルールを守るのは、場合によっては極めて難しい。たとえばシェイクスピアの『ハムレット』のような作品について、すべての先行研究に目を通していたら、一生かかっても終わらないだろう。だから普通は、最近のものだけ、あるいは古くても重要なものだけに目を通して論文を書く。こういう場合は、あまりに先行研究を読むことに拘泥していると、いつまでたっても一本の論文も出来上がらない、ということが起こる。逆にいちばん質が悪いのは、自説にとって都合の悪い先行研究があっても、無視してしまう、というやり方で、これは書き手の倫理が問われるところだ。後者のルールも、やや守るのが難しい。というのは、資料の取捨選択にすでに書き手のイデオロギーが潜んでしまう、ということがあるからだ。(小谷野敦『中庸、ときどきラディカル』015−016)

最近20年くらいの研究に絞っていい理由は、その中に既に過去の重要な研究は収まっているからである。新しい重要な研究に触れられていないような過去の研究は、すでにゴミになったと解釈してもいい。密度と奥行きと幅の違いはあっても、学士論文であろうが博士論文であろうが、小谷野氏の述べたルールは変わらない。もっとも、いったんゴミと目された研究でも、再評価と再解釈の余地はあるが、それらの発見も普通は偶然ではなく、先行研究の意志的調査の延長上に現れてくるものなのだ。

(余談だが、外国語から日本語に翻訳する際も、なるべく関連の先行研究者が選んだ言葉を使ったほうがいい。「有責性=応答可能性」などと大袈裟に訳している言葉の原語は何かと思えば、responsabilité ではないか。Seán Hand などはresponsibility と素直に訳して終りだ。つまり、責任とか義務のことだ。めずらしい概念ではない。恐らく、形容詞の responsable の意味をいろいろ考えて苦労したのかもしれないが、読む日本人はこれでいいのかね。法律用語としての日本語に「有責」が確かにあるが、これは英語なら responsible for というより、liable for とか blamable に対応するはずだが。だから、離婚訴訟関係の「有責」行為に出てくるわけよ。法律関係者か離婚経験者でなければ馴染みのない日本ではないのかねー。また、anachronisme とか diachronique(diachronie)だが、いくらレヴィナスが新しい意味をこれらに与えたからといって、これらにも日本語の定訳従前からの訳(時代錯誤とか通時的[通時法=英 diachrony])は存在する。それらを無視して(あるいは知らないで)変な訳をするから、内田先生ホントに中身がわかってんのなんて勘ぐられちゃう。)

話を元に戻そう。しかし、大学の4年程度で、20年間の研究を渉猟できるはずはない。そこで登場するのが、指導の教師ではないか。教師が大まかなテーマに関連する幾つかの基本図書を提示してあげれば、学生が必要なものは芋ずる式に出てくるはずである。その中から、己の卒論にふさわしい特殊テーマを掘り下げて(narrow down)狭めてゆけばいいのである。この指導ができないで、教室で漫画映画でも見せていれば(←これは内田先生のことではありません、念のため)講義だと思っているような大学教授は辞めろ。

「正しいこと」と「いいこと」は違う。そうだよ。確かに違う。だから、学問なんだから、自分に気持ちが「いいこと」じゃだめなんだ。学問的に「正しいこと」でなければ<論文>とは言わないのだよ。論文はそんな甘〜いものじゃない。そんな了見から、ラカンレヴィナスが「だいたい同じこと」を述べていると結論づけるのも、学問的に(客観的に)正しい見方であるというより、主観的に「愉しい」見方からである、と言うのだろうか、内田先生は。馬鹿や気違いの論理に付き合わされる精神科医は、その論理をまともにトレースするとくたびれるので聞いたふりだけするのが技術だそうだ。反対に、患者は好きなだけ語れるので「愉しい」らしいが。(この項、内田樹『他者と死者』272参照。なお、「月光仮面」はその前のP268に出てきます。)

すべての不幸を解決する『最終的解決』の方法を私は知っているという人間を信じてはいけない」に関しては、内田先生のタルムード、他者、無限、超越、欲望などの解釈がレヴィナスのものと似て非なる(←かもしれない)ことを書こうとしたが、だいぶ長くなって疲れたのでまたの機会にする。皆様、ご免。(皆様、また、誤字誤植教えてね。そのつど直します。)

反省:解釈が違う最大の原因は、宗教的バックグラウンドと心の習慣(Bさんの真似か)の違いかもしれない。Dr. Murakami を読んで無理もないかと思った。造られた者として人間皆同じ。違うからといって戦争するわけにもいかないのだから、まあいいか。俺まで、「別になんだっていいよ」(←これは卒論のことではない。解釈のこと。卒論が何でもいいことはない。)と言いたくなってきた。