Comments by Dr Marks

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山内得立の遺稿『随眠(ずいめん)の哲学』と西田・和辻・梅原に関する

覚書的コメント―竹田壽恵雄の彼らとの異質性について

  この囲みの中は、この記事を書いた翌日の追加であるが、いろいろな不思議がある。竹田先生は出所を明らかにするのに、山内はなぜ隠す(あるいは明らかにしようにも知らない)のか。


  山内もアナロジーすなわち類比(山内は類推という訳語を使用、私は自信がないので平凡社の哲学用語に従って類比とする)を扱うが、何でも自分のもののように解釈する。確かに、竹田先生はロゴスの使い方など山内の影響と述べながらも、後半では山内などと違いきちんと Erich Przywara の文献を挙げていたが、実際に竹田先生はこの日本でも一部には知られているイエズス会士の考え方に近い。この神学者(哲学者)もフッサールの影響下にあったわけだが、Przywara の類比の考え(文献)を竹田先生に教えたのは誰か? ここからカントの類比に向かわせたのは誰か?


  竹田先生はロゴスは使うがレンマは使わない。山内のレンマはロゴスと一緒になっているから、レンマとはすなわちlh/mma(レーマ lēmma)であろうと思った。これは何もめずらしい概念ではなく、普通の牧師でも知っていそうな神学ではかなり有名なものだからだ。ところが、山内は、『随眠の哲学』の中で「レンマとは私[山内自身]の仮称であって未だ学界で遍用の術語となっていない」(P123)などと言う。不思議なこともあるものだ。もっとも山内は lemma と綴っており、lēmma(←ēに注意)ではないのかとも思ったが、lamba,nw からの言葉と言っているのだから、やはりlēmmaなのだ。 (lemmaなら lemma で別の言葉。また、山内はla,mbanw とアクセントの位置も間違っている。しかし、山内のせいではなく、編集ミスの可能性もある。)とすると、何も「私の」と言わなくてもいい。もっともある意味では「私の」には違いないが。つまり、ロゴスは万人に与えられた共通のもの、レンマ(レーマ)はその時々に必要に応じて特定の場面で(ひょっとしたら「私」にだけ)与えられるものである。誰が(どんな文献が)山内にこんな言葉を教えたのか? いずれにしろ、山内は出所を明らかにせず(あるいは雑談で得たヒントなので出所がわからず)すべて我が物というのはいかがなものか。--- Unicodeで入力してもギリシア文字は変てこになる。御免。はてな」ではUnicode は使えないの? 誰か教えて。←Unicode は使えなかったが、ご覧のとおり HTML tag の FONT FACE を使い "Bwgrkn" を使ったら少しは様になった。しかし、アクセント記号の後ろが少し空く気がする。諸君のブラウザーでもギリシア文字はうまく出ているだろうか? ああ、ITに弱い年寄は困ったものだ。

この山内得立の本は、山内の没後出版である。19831993年に初めて出たときは、ほとんど顧みられることがなかった。つまり、有り体に言えば、ほとんど売れなかった。ところが、2002年になって梅原猛が解説を付けて京都哲学選書として再発行したところ、少なくとも大学図書館等では結構購入したらしい。叢書に入った強みと、知名度の高い梅原のせいであろう。(しかし、梅原の解説は繰り返しが多く、已む無く書いたやっつけ仕事であることが明白だ。)

竹田先生は、自分の本が出たあとに出版されたこの『随眠の哲学』は引用していない。しかし、山内が岩波から出して割合に売れた『ロゴスとレンマ』にはDie subjective Wahrheit und die Ausnahme-Existenz で言及している。そして、言及していなくても、私が既にこのブログで書いたとおり、ロゴスをめぐってKant und das Problem der Analogie では山内の影響が顕著である。

しかし、どうも腑に落ちない。竹田先生の哲学は、山内の用語を引用し、援用しながらも、後者(Kant)では明らかに換骨奪胎、前者(Wahrheit)でも主体の扱いにおいて何となく山内とは肌が合っていない。メンタリティーが異なると言ってもよい。ともかく、竹田先生は学者として山内とは異質なのだ。

なぜなのか。理由はさまざまあるだろうが、私の一つの体験を紹介する。先日、LA地区で日本語による日本人哲学者の書籍が比較的集まっている書架の前に立ち、幾つか馴染みの哲学者のものを拾い読みしてきた。やはり私は、日本語の哲学書には哲学書として違和感がある。西洋哲学と銘を打ちながら、西洋哲学とはまるで違う。そういえば、私は、小説以外の竹田先生の本は日本語で読んでいない。だから哲学としての違和感がない。確かに、日本語の醸し出す独特の表現結果と欧米語のそれには不思議な乖離がある。従って、竹田先生の議論と山内の論考と照らし合わせても、用語の類似性にもかかわらず、全くの別物であるとしか言えない気がしていたのだ。(もちろん、竹田先生のこれらの本は日本語でもあるのだから、それらの日本語版を読めば違和感を覚えるかもしれない。その可能性は排除できないが、やはり違う。その証拠は、彼らとは違って、竹田先生がドイツ語で書くことにこだわったということではなかろうか。)

寺の坊主の息子である山内は西田の弟子だった。西田を批判する論考があるとはいえ、実際に山内の『随眠の哲学』を読んでみると西田と同じではないかと思ってしまう。大雑把な言い方ではあるが、西田、山内、そして和辻に共通するのは東西思想の融合である。しかし、その方法は雑で、不確かな仮説を土台に据えて推論に推論を重ねてゆく。一見、独創的に見えるが、真の独創とは違う。真の独創的な仮説は、常に同業者からの叩き出しを加えて(つまり、批判と抱き合わせで)新しい「仮説」と認定されるのであるが、彼らにはそれが欠けている。

本書でも、山内は独学による古代諸語を頼りに、しきりに語源遊びを繰り返すが、専門家の吟味を直接にも(学者との討論)間接にも(文献との照らし合わせ)した形跡はなく、独学から独白へとのお定まりの議論となっている。独学したこと自体はいい。むしろ、尊敬すべきことだ。しかし、独学の危うさを認識していないことが問題だ。ともかく、山内が一時古代中世哲学史の教授であったとしても、田中美知太郎などの本格派と同列に扱ってはならないし、寺の坊主の息子として育ったからといって、インド学仏教学においても渡辺照宏などの本物とは比べるべくもない。

これら3人のわけのわからない神仏の申し子のようなものが梅原猛だ。一生、プラトンやカントやデカルトに取り組むことは意味のないことと勘違いして、あるいはそれらの道から落伍して、がらくた屋になったのが梅原で、このがらくた屋を拾ったのが山内である。山内は、懐が深いこともあったではあろうが、梅原とは肌が合っていただはずだと思う。(一生カントをあるいはプラトンをやったからといって、他のことは無知と思うのは、大いなる勘違い。しっかりした軸から他を見て、もろもろを吟味するのであって、浮き草的視野からは何も見えない。)

竹田先生は、東北帝国大学で師事した高橋里美の許を離れ、京都の山内得立の許に身を寄せた。これは事実である。しかし、学者として、そこで幸せであったのだろうかと、今、私は疑問を感じている。すなわち、竹田先生の思考性向は高橋と共通のものであって、山内のものとは、結局、馴染まなかったのではないかという疑問である。

まだ竹田先生の2冊の本は精読中で、そのように結論付けるには早いが、生身の学者が現実の人間的ダイナミックスの中で思考し著作する過程を慮るならば、甚だ思考性向への興味は尽きない。これらのことは、書評に書くような事柄ではないので、この機会に独白的にメモした次第である。