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私小説と「私思想」のすすめ:中島義一と中島義道

ブログの中味は下の2冊の本と内容的には関係がありません。念のため。

私小説のすすめ (平凡社新書)

私小説のすすめ (平凡社新書)

こども認識論 林檎の味 中島義一著作集 (3)

こども認識論 林檎の味 中島義一著作集 (3)

タイトルはもちろん猫猫先生を意識したものだ。一つには『私小説のすすめ』に「・・・と私思想・・・・」を加えたに過ぎない。もう一つが猫猫先生と相性の悪い中島義道(通称ギドー)という名だ。中島義一という名は、諸君、たぶん知らないだろう。で、ギドーとはどういう血縁関係? おそらく、その関係はない。後で述べる。

余はもはやおとぎ話やファンタジーやSFには興味がなくなった。いや、それが悪いとは言わないが、限られた人生の中では、仕事でもない限り読む気はしない。人生の時間を損した気分になるからだ。だから私小説専門かと言われれば必ずしもそうではないし、大上段に私小説と振りかぶったものも気持ちが悪い。まず、例は挙げないが、あまりにもナイーヴで赤裸々過ぎては面白くないのだ。

余はやっと竹田壽惠雄(1915−1998)の残した二つのドイツ語の著作の紹介(評などと言えるものではない)に取り掛かったが、彼の個人生活について新たに知ることがあり、なるほどと思っていることがある。一応、著作に対して体裁を整えたものは本家のブログで連載するが、こぼれ話のようなものはこの分家のブログでも書いていく。

哲学という分野においては、むしろ一般的で竹田に限らないことではあるが、竹田が目指した思索と哲学は、実は、余が命名するところの「私思想」だ。竹田は壽惠雄(すえお)という名が示すように末男すなわち末っ子で母親に可愛がられたらしい。それはともかく、彼が哲学を目指すようになったきっかけは、小学校の教師が薦めた子供向けの哲学書であった。後の哲学や小説へのこだわりは、ここに彼の原初的な体験・感化・動機がある。(彼は小説も出版している。)

もちろん、本格的な哲学書が子供向けであるはずはないが、41歳で早世した教師畑(教育現場)の著者が、子供や保護者が理解しやすいように、「哲学する=考える」とは何かについてわかりやすく説いた書物のようだ。余は未見であるが、現在も復刻版が新刊で手にはいるらしい。それは中島義一(1893−1933)の書いた『こども認識論 林檎の味』(こども哲学叢書第1編)という本であった。

本書は2003年に復刻されたが、調べてみて驚いたことに国会図書館にも原本はなく、NACSISでは日本の図書館ではなく中華人民共和国の天津図書館にあるだけだ。中島義一は茨城県結城郡石下町の生まれ、茨城師範、広島高等師範を出ており、小学校や中学校(旧制)の教師をするかたわら著作を相当数残している。東京高等師範でも学んだといわれている。

さて、この名前に似た現代の哲学系の男に中島義道(1946−)がいる。どちらもナカシマではなくナカジマであるから血縁関係はあるのだろうか。少なくとも親子関係はない。義道の生まれる13年も前に義一は死んでいる。では、孫かといわれても余は知らぬ。第一、中島などという名はざらにあるし、「義」という男子の名前もポピュラーだ。関係のない可能性のほうがはるかに高いだろう。

余は、この義道というのもよくわからない。知っているのはむしろ猫猫先生こと小説家で比較文学者の小谷野敦と相性が悪いということだけだ。ウィキペディアで見たら、あの茂木健一郎という馬鹿と同じで、東大の身内庇いの恩恵というか、ただただ社会に出るまであちこちの学部に学士入学させてもらったり大学院に受け入れてもらって遊んでいるようだ。(もちろん、学士入学も大学院も試験はあるが、ずいぶんと簡単なところもあるよ。)

そうそう、茂木が馬鹿である理由は本家のブログに書いた。更にこの分家にも書いている。文句があるならそれ読んでからにしてね。で、義道は茂木の馬鹿とは違って、ウィキペディアによれば、何か積極的に求めるものがあってそのような学内遍歴をしたそうだが、どうもよくわからんよ。余の言う「私思想」かどうかわからん。それは彼の著作を読んだとしてもわからないかもしれない。

余の言う「私思想」というのは、私小説のごとく、体験(personal experience)、感化(influence)、動機(motivation)に深く根差すものだ。これは高邁な知識がいくらあっても出て来はしない。論理がいくら鋭くても「私」がなければ無理である。そして面白くない。お勉強や学習によるだけの思想はゴミだ。もっとも、「私」だけで「思想」がなければ只の世迷言なので学習はしてほしい。てか、「私」がしっかりすると学習したくなるというのが自然の流れなんだべさ。

学習すると、初めの強烈な「私」も次第に客観的な「私」として捉えることができるようになる。それができない、あるいはできていない状態が狂人だわさ。政治思想や宗教思想はもちろん哲学思想も集団で狂いだすことがある。それは客観的に捉えられた「私」がないどころか、「私」がまったくないことのほうが多い。そんなもんだ。ところで、義道さんて、自分で精神病と言ってるんだって? いやいや、余はわからん。ウィキの記者が言ってるんだよ。ただし、引用つきでだから、本当なんだろうな。

余はドイツ哲学(学部)や理論神学(大学院)を専攻したのに、哲学や神学のおしゃべりが大嫌いだ。とくに「私」の見えないおしゃべり屋さんには閉口する。そんなのとは付き合いたくない。人生は短いぜ。そんな話を聞くくらいなら落語でも聴いてるよ。勉強になるし、第一、楽しいよ。