Comments by Dr Marks

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学会発表のための審査は必要か?

日本の英文学会の会長である大橋先生が大学院生の学会発表と学会発表の審査(正確に言えば予審)について書いていた。学会発表というと大学院生が多い。今回もそうだった。だから、学会発表などはそういうものと思っているから、年寄りの学者が発表しているとそれだけで尊敬してしまう。ところで、学生の発表だから粗末かというと、大橋先生も書いていたが、必ずしもそうではない。むしろ馬力一杯の力で最新の研究成果を上げているのは、博士直前の学生だ。

問題は二つある。

まず、学会発表の審査、すなわち発表させるかどうかの予審など、必要であろうか。大橋先生は予審に提出された内容が実際の発表でも行われたかどうか審査する役回り(座長)が重要であるようなことを書いているが、私などは申し込んでから発表までには進展があるのだから、内容が変わってもかまわないし、変わって当然とさえ思う。確かに、わが国のSBLなどでも初めて発表するものは発表原稿全文を提出することとなっているが、これはわけのわからない人士が発表されても困るので、それを阻止する意味しかなく、実際の発表では内容に進展があったら、別文で発表しても一向にかまわない。二度目からはそんな原稿は要求されず、プログラム用の実に簡単なアブストラクトを出すだけでいい。(だから、とりあえず出して、大会当日までに一生懸命準備する不心得者もいないわけではない。)

もう一つの問題は、学会発表ナンボノモンジャイということだ。学会発表など大層な業績とは思わないほうがいい。第一、審査を経て掲載された論文ならまだしも、学会発表などという口先だけのものを業績としたり、博士論文を提出するための要件とするほうがおかしい。こんなことを要件にしている大学ほど、実際の博士論文審査で甘っちょろいことは周知の事実。

だから、発表など、したい者には勝手にさせろ。発表して自分の考えを同業者に吟味してもらったり意見をいただいて(すなわち質疑応答だ)さらに考えを深めて研究すればよい。この点、確か日本宗教学会は自由なはずだね。日本基督教学会は、逆にある程度の権威者しか発表させない。いずれにしろ、学会発表など軽い気持ちで誰にでも許し、その発表を学会が権威づけたりしないほうがいい。大事なのはコミュニケーションだ。